趣味|写真を撮る意味 その2
※Twitterの下書きから派生した文章シリーズ、またやるよ
で、一体、写真を撮ってどうしたいの?って意味を追求することは、度々あるが、混沌とし過ぎていて、それが何なのかはよくわからないというのが、正直な答えであるし、意味なんてないというのが、面倒のない潔い答えなのだが、生きていると言うことは、秒針が動いているということで、目には見えないコマがそこには無限に存在していて、そのある一コマを、写真という媒体で切り取った時に、初めて、わしがその瞬間に介入出来た客観的な証拠になる
これがどういう意味合いを持つかと言うと、本当であるなら、意識しても永遠にそれを捉えることの出来ない瞬間を、永遠にすることが出来ると言うことだ
もっとかいつまめば、その一コマの中に時間を閉じ込める事が出来るいう、見方によれば、本当は最高にファンタジーな時間への抗いなのだ
わしがその場面を見た時の同時刻に、鑑賞者である貴方が何をしていたか、それを伝える手段として、人は、文章だったり、言語的なコミュニケーションだったり、もっと正確にしたければ、写真を撮って、それを伝えるが、その一コマは、二度と目の前には現れない、もうその瞬間が、過ぎ去ったら、もう二度とその瞬間には介入できないのである
こう考えると、幾分、浪漫が生まれる、その時にしか見られなかった(例え同じような景色だとしても)ものは、その時間軸上では、再現不可能な刹那の中に閉じ込められる、その刹那の連続を生きているのがわしら人間であるのだ、だから、写真を残すということ、ないし写真そのものは、その戻らない時間軸の中に、時間を閉じ込め、そして、それを不特定多数の人間と共に、それを客観的に見ることの出来る、いわば、タイムマシンで時間旅行した空間を共有できるアイテムなのである
その一コマにどんな想いがあるかは、撮影者に委ねられる、もしかしたら、それは後付けであって、撮影した時点では、何となくで撮ったものかもしれないが、その一コマが、永遠になった時に、数ある内の貴方の人生の一部に、その写真達は、ひっそりと居場所を設けられて、息ができるのである、そう考えると、以前も記事に記したが、写真を撮ることは、自分の分身を生み出すもので、自分が無くなった時に、自分自身を感じて貰えるその余韻となり得る一つなのである
道半ばで、歩いている意味を問いただすことを繰り返して、人は生きていくのだろうけど、行き着く先は無である、自分自身を形として残していくことそのものが、誰かへの力になる事だってあるわけで、それを期待しながら生きていくのであろう、後世に何を残せるか、まだ死に行くには早い年齢であるけれど、無情な世の中を歩いていくだけでは、何とつまらないことか、自慰でもいいから、何を残せるかに主眼を置いて生きていっても、バチは当たらないであろう
わしの撮る写真が、人の為になるかはわからない、写真を撮る行為の中で、近しい人が、自分を永遠に想っていてくれたなら、それは幸いである
そういう感じで毎日、note書いとるな、たまにはいいであろう、もうそろそろ、幸せが訪れてもいい気がするのだが、自分自身を取り戻していく作業を、日課にしていきたい(現実と向き合いたくない)
そんなこんなで、今日も読んで頂きありがとうございました、よろしければ、漢方薬ください(胃が痛い)また、読んでやってくださいね
したらば!!!!!
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