見出し画像

解釈と納得感の共有の話を今したい。

"自粛"とか"家で過ごそう"とかいう言葉たちが社会に浸透して人との物理的接触を避けると言ったオフラインな行動を、人類がオンラインを習得する前に推奨される時代が来るなんて誰が予測してたのだろうと思う今日。自分の中で人類がウイルスの回避ではなく、ウイルスとの共存へとフェーズが変わったのは何時頃だろうかと考えている夕方頃。自分は業種や土地といった環境に恵まれている方なのか、業務なるものは今のところ進行できている方でありかなり恵まれていると認識している。

世の中には今まで、そして今この瞬間、さらにはこれから先にたくさんの困っている人がいる。不幸に陥っている人がいる。だからこそ一刻も早くこの世の中から今起きている不幸が1つでも減ることを目指しながら、1人1人が最大限未来の答え合わせで納得がいくような行動を心がけるようになるといいなと。

さて、今からはこの"納得"というワードに因んだことでもツラツラと短文で書いていこうと思う。

去年の12月頃だろうか(記憶が定かではないのだが)、大学の学部固有科目交換受講システムを活用させてもらい総合政策学部の授業を受講させてもらっていた時に、【米バイオベンチャーのAmgen.Inc】という会社について触れる機会があった。(以下.Amgen社)
その中で会社の社員の行動規範を見てて再認識を感じたのがきっかけの1つ。

本題ではないのだが、前菜でも出しとこうと思う。
そもそも(会社の)社員の行動規範とは何だろうか。説明にカロリーと時間、そしてリスクが伴いそうだ。あらゆる方向から回答やそれに応じた批判が来そうではあるが、自分は会社の社員に対する行動規範とは"企業文化を作り出すための環境形成手段の1つ"と考えている。

今回は行動規範の概念部分の分析を行うことではなく、Amgen社の行動規範の中身で得た所感を我々が向き合っていく感染症や日常と共に書いていきたいと思う。(最初に述べておくと、相変わらずの当たり前に帰着する再認識シリーズ)


Amgen社の行動規範の中でなるほどなと感じた言語化物が以下のものである(一語一句の精査には対応していないため、ある程度簡略化しています)

・仕事を進めるにあたってはプランと納得感を共有して取り組もう

物事の本質を見抜くことはそう簡単ではないと思う。世の中に溢れている情報はそれなりの数が人をどこかで介した上でエンドユーザーに届いている。そもそもそのようなエコシステムになっている。

今回の某感染症によるニュースや記事、それによる人々の行動を見れば一目瞭然ではないだろうか。専門家が対策のために初期に提示した数字、対策班と議論をしていった結果は政府によって書き換えられた上で数週間後に国民に知らされたというものだった。専門家が最初に出した数字は大袈裟だったのかと誤認識した人たちが発生し、事実を無視してその専門家に対し批判を飛ばしたのだ。政府が書き換えたことは良くないことだろう。
今回は誰が悪いという類の正義は登場しないお話しである。話を戻そう。
これを経験した専門家は、自身のチームでTwitterのアカウントを開設し、『なぜこの数値なのか?』や『基本的対処方針』などを独自で世の中に公開し、国民に真実と納得を共有しようとしている。ここを起点に話を展開していきたい。

今回の事例では政府と専門家の事実や見解の共有の場がブラックボックス同然なので、プランの共有に関しては施策をメディアに向けて打ち出す大臣たちの裁量権が多い。しかしながら、専門家たちによるメディア発信といった所謂SNS媒体を用いたコモディティハードウェア向けの発信は現代においてプランの共有がそれなりの数を取れるだろう。(テクノフォビアおじさんとかアンチSNS民は除く)

さて、プランは共有される土壌が整ったとしよう。次に出てくる弊害が"納得感"というものである。この"納得感"はかなりスルーされていると僕は感じる。"納得感"が共有された事例を一つあげてみようと思う。

日本では『忖度』という言葉が流行った時がある。『忖度』とは教養レベルでは少々高い位置にある語彙だと昔は認識されていた。しかしながら、『忖度』という言葉は意味の理解を踏まえて我々にインプットされ、そして今日の日常生活で会話の中に登場するようになっている。ここに僕は"納得感"の共有なるものが垣間見れるのである。その言葉(意味を含む)と自分の現状を見て納得したからこそ、定着し習慣にまで落とし込まれているのではないだろうか。『相手の気持ちを推し量る場面…めちゃくちゃあるよな…』とか『俺の職場なんて忖度だらけじゃないか!』という"納得感"があったからこそ、すぐに自分たちの中に落とし込めているのではないだろうか。さらには会話の中の手段の1つにまでなっているのではないだろうか。

僕は日本人の暗記力や理解力を見縊っているわけではないし、舐めているという話がしたいわけではない。
"納得感"があれば定着と習慣は確実に近づくという当たり前の話をしている。さぁ、話を感染症と専門家の時に戻そう。

今回の感染症についてはたくさんのデータが医療現場や保健所や政府の方々のおかげで世の中にある程度公表されている。2月ごろの日本を思い出してほしい。身の回りに『大したことないだろう…』と大きな顔で言っていた人はいなかっただろうか?『致死率全然低いじゃないか!』と言っていた人はいなかっただろうか?逆に『何でこんなに危ないウイルスに呑気な思考でいられるんだ!』という人もいなかったか?誰かを責めたいわけではない。世の中の認識フェーズが大きく変わりつつある今日、きっと今はある程度の人口がウイルスに対してそれなりの危機感や不安を示しているだろう。
ここで問いたいのは、出された数値と専門家からの自粛要請や危険信号の発信に対してなぜ楽観視と危険視が共存していたのかということだ。(そして今もなお共存しているところもある)もちろん人間は分かり合えない生き物であるとかいう高い抽象度の思想表現で一掃できてしまうかもしれないが、まぁとりあえずは解釈が違うのだというところになる。そして少なからず"納得感"が共有されていないからだということを僕が言いたいのははここまで読まれた方は察しがつくだろう。でもまだ納得の前に話さないといけない事項がある。

とりあえず先ほどの話は物凄く当たり前のことである。解釈の違いから複数の納得が生まれていることがあらゆる考えの共存を生むのである。数値を出されて0.2%の致死率を低いと思う人もいれば、500人に1人という見方で恐怖を覚える人もいれば、500回に1回事故を起こすジェットコースターという式変形を行う人もいる。1人1人で答えが違うのは1人1人で解釈が違うからだと思う。中高の数学で解が間違っている理由は途中式が違うかやり方が違うとか計算が間違っているとかある。それと今回の話は共通項が存在するのではないかと僕は考えている。数学には答えがあるが、感染症対策に答えがないとかいう批判を待っているわけではない。情報を見て瞬時に判断しアプローチを取る際、"判断の違い"と"アプローチ方法"が違ってくると答えは違うよなという話がしたいのだ。もちろん数学は大前提となるルールが多く存在するので人間のものの見方ほど自由度は高くないが、あまりこの話をしていくと僕が感染症に対してどういう考え方なのかというコアでダイレクトな部分に触れてしまうので避けます。(感のいい人は分かると思う)

ここまでのCOVIDの話で"解釈"とその先にある個々人の"納得感"が登場した。さて、ここからはかなりあっさり流れていく。さて、"納得感の共有"はかなり難しいのではないだろうか。Twitterで言い合いをしているのとかを見るとわかる。我々の日常でも難しいだろう。納得感を共有するには同じベクトルを向いた解釈が全会一致するか、多様な思想や見解を寛容に受け入れながら自身の軸を持ち自己完結するような人の集まりくらいだろうか。"納得感の共有"という簡単な言語化と相反する実行の難しさということが少しでも伝わっていれば幸いである。サラリーマンであれば現場でいかに情報の共有のその先が行えていないかみたいなことを例に考えてもらうと深い理解を得てもらえるだろう。会議で経営方針に関する話をしていても全く参加者たちの主語が見えてこないという現場のことである。就活を一度でも何かしらの形で経験したことのある学生さんや働いている人に向けての話もしよう。GW(グループワーク)で話した内容を自分なりの納得なくその先の解釈も存在していない上で発表させられているため、聞き手は言いたいことが全く伝わってこないし熱や面白さを感じないという結果に繋がっている事実は必ず数%でもあると思う。

まずは自分の納得感を見つけて、次にそれの共有を行う。当たり前だが、そのためには1人1人が情報に対して主語(ファクトチェックされた情報を解釈し、納得を感じる状態が前提にある上での自分の意見)をしっかりと踏まえた上で話し合いが行われるべきだと感じる。意見はもちろん、人前での話し方とかそもそも命題内容が陳腐過ぎるとかの要素は大きなパーセンテージを占めているのだけれど、"納得感"の共有というワードを頭に入れて集団で何かを行うのとそうでないのとでは現場で感じるストレス量や現状把握力が違うので、暇な人は頭の片隅の中の片隅くらいに入れておいてもらえると書いた甲斐が僕に出て家の中で喜ぶことが増えるので嬉しい。

実は"納得感"の共有に加えて、Amgen社では
『誰が』ではなく『何が』で判断しようみたいな行動規範もあるので、ここを混ぜるとこの話はかなり複雑化していくのが想像される。僕なりには未知のものに対して『誰が』にはある程度信憑性や根拠がついてくるからそれはそれでいいと思う。この話は終わってしまう。正直書いていて全てにおいて説明が足りない部分があると感じるが、長いものは書いていて飽きてしまうのでそろそろ終わりに向かいたい。

物事の本質を見極めながら人が集団の中で解釈してそれを共有して1つのテーマを決めるってことかぁ…大変だなぁ…みたいな話がしたかった。環境にかなり依存しているが、共有が重要視される現場ではその情報のみではなく情報を介した後の主語や思考、見解も見た方がいい場面はある。もちろん感染症に関しては事実のみを述べてもらいたいので、昨今の世の中にはいかがなものかという部分はたくさんあるのでそこは注意してもらいたい。ただ、ビジネスシーンなどにおける話では情報共有の先にある"納得感"の共有による産物はきっと各個人を楽にするものなのではないかなと考える。

家にずっといてつまらない気持ちは理解できるところはある。しかしながら、家に長期間いる時間はそれはそれで有意義だと思える部分もある。ぜひ家で時間をかけて孤独と向き合って欲しい。孤独と向き合わなければ自分の主語が見つからない場合が多い。日々他人と接する時間が多い今日。ぜひ孤独に自分と向き合って己と徹底的に向き合う時間に使ってみてはどうだろうか。本を読む。動画を見る。料理をする。ボーッとする。大好きなことに精一杯の時間を費やす。誰かの手伝いをする。経験したことのないことにチャレンジしてみる。家で君が気になっていたことをやっても君を笑う人や馬鹿にしてくる人は誰1人いない。1日数時間を1年半も続けれる人はなかなかいないだろうけれど、きっとある程度の日にちで何かが変わると思う。物の見方が変わればきっとストレスも減る。そこにはもうあなたの主語がある。あなたのプランが決まっている。そしてこれから納得感の共有を行うための大事なパーツの1つを手に入れている。そんな話。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?