テニュア審査

トロント大学でのテニュア審査が終わったので忘れないうちに、手続きを記録しておきたい。

テニュアとは日本語では終身雇用権と訳されるもので、大学との契約が任期ありから任期なしに切り替わることをいう。大体の場合、昇進を伴う。大学によってはテニュア付与とProfessorへの昇進がセットになっているところと、Associate Professorへの昇進がセットになっているところがある。前者はシカゴ大学とかイェール大学とかアメリカの名門私立大学が多い。ぼくの所属している(いた)香港科技大学とトロント大学はどちらも後者のパターンである。

まず、テニュア取得の申請をするわけだが、これは通常任期付きの契約の最後の年の年初に行われる。つまり、任期が2024年6月末なら申請の締め切りは2023年の9月半ばとなる。審査を行う関係者には事前に意向を知らせて感触を探るのが普通なので、その意味での実質的な手続きは2023年6月スタートと思えばよい。テニュア申請は任期の最終年とは限らない。実績が自他ともに認める内容であれば早くテニュア申請してもよい。こういう場合はたいてい学科長から、早めに申請してはどうかというアドバイスがある。実績がすばらしく他校から引き抜きのリスクがある若手に対しては学科長は積極的に早めのテニュア申請を勧めるようだ。自分の場合、香港科技大学では実際に任期満了前に申請するように言われた。(申請した後、自己都合で退職したので最終的な結果は分からないままだった。)トロントでも、PhD取得からもう10年も経っているので申請が当然という感じではあった。

書類編
申請を始めるにあたり、学内のマニュアルを読んで9月半ばまでにどんな書類を揃えればよいのか把握する必要がある。また、同僚で最近テニュアを取った人がいればその人の申請書類を見せてもらうのが手っ取り早い。だいたい、テニュアを取った人というのは成功した人なのでよろこんで書類を見せてくれる。香港の大学でも、トロント大学でも基本的に提出するものは以下の3点である。

まずは、履歴書(CV)である。これは各自いつも更新しているはずので特に新たに用意する必要はない。ただし、ファイナンス、経済学分野では共著の論文についてその貢献度を明示化することを求められる。これは、慣習的に著者の並びかたがアルファベット順であるため、複数の著者のうちだれがリーダーでだれがフォロワーであったのかがよく分からないからである。トロント大学では、論文ごとの貢献度をまずは候補者に詳細に記述させ、その文章を各共著者に送付し「あなたはこの貢献度の記述に賛成するかどうか」について短い確認を直接求める作業をしていた。香港の大学では共著者には連絡しておらず、自己申告だったと記憶している。

次に、リサーチステートメント(研究概要)である。外部のレターライターや内部の研究評価担当者が評価を書く際に参考にするのがこのステートメントなので、ここに力を入れる候補者は多いだろう。一般的には、これまでの自分の出版された論文を一つの大きな研究テーマ、思想に沿う形で概説する人が多いように思える。ただ今までに書いた論文を要約して羅列するより、候補者の研究実績を総括する一つのメッセージが浮かび上がるような文章がよいようだ。

さらに、自分の書いた論文が外部でどう評価されているか具体的な情報を付加する。たとえば、学会賞を受賞したり、ウォールストリートジャーナルなどの主要紙で取り上げられたり、自分の論文が他大学の教授によって授業の必読論文としてシラバスに記載されていれば、これらを自分の研究が社会に影響を与えた証拠になる。

また、評価の際の参考情報などもここに書いてよい。たとえば、マタニティリーブとか転職とかでキャリアが中断したことなどを書くことで、論文の本数がPhD卒業年対比で平均よりも少ない場合などにその理由を説明できる。
リサーチステートメントの長さは人によってかなり異なる。ぼくはこういう内部資料にはかなり手を抜くほうなので、長さは16ページほどになった。日本人、またはアジア人に見られる傾向として、研究内容が良ければ一生懸命アピールしようとしまいといずれは他人にも評価されるはずだと考えがちなことがある。ぼくもだいたい同じふうに考えているのでリサーチステートメントなんかはあっさりと終わらせた。一方、ほかの文化圏(例えば欧米)で育った人は同じ論文数であっても、それをものすごく重要な結果であったように説明するために多大な時間と労力を費やす人が多いようである。このため、リサーチステートメントが30ページとか50ページになったりもする。夏の間中ステートメントを書いては第三者から直してもらい、書き直すという作業をする人もいる。これは、テニュアを取ることを至上命題とする研究者の姿勢としては合理的かもしれない。個人的には楽しい意味のある作業だとは思えなかったが。

最後に、ティーチングステートメント(教育概要)である。これは、研究大学であればほとんど問題にならないが、一応体裁を整えるために書いておく。自分の教育方針・哲学を説明し、これらをこれまでの授業にどのように生かしてきたかを書くものである。これまでどんな授業をもって、その様な準備をし、どういった成果を上げたのかをこれも具体的な証拠を上げながら書く。ぼくのステートメントは証拠部分にこれまでのレクチャーノートなどを添付したのでやたらと長くなったが、内容は大したことは書いていないのである。

評価編
トロント大学では、テニュア評価は次のような3ステップで行われる。まず第一に、候補者の研究ないし教育を評価する副委員会が学内で立ち上がり、候補者の書類を読み込んで評価レポートを作成する。この副委員会のメンバー及びレポートの内容は候補者には開示されない。また、それとは別に外部の著名大学の教授にもテニュア・レターを依頼する。大体10~12人ほどで、これは候補者が自分で選んだ教授もいれば、大学側が選んだ教授もいる。この第一段階で数か月はかかる。例えば9月に資料を提出した場合、副委員会の評価は年内には終わるというのが相場観である。

第二に、副委員会やテニュア・レターなどの評価書類を取りまとめ、テニュア委員会が召集される。この委員会はとてもフォーマルで、ビジネススクールの担当分野の教授(自分の場合はファイナンス)、担当分野以外の教授(例えばマーケティングとか会計の先生たち)、ビジネススクール外の教授(物理、数学、歴史学などなど)がすべて混じって一堂に会する。欠席などはできず、全員がちゃんとそろっていないと委員会は開けない。これらの先生たちが提出された証拠を一つ一つ評価し、最後に投票でテニュア付与に賛否を決める。いろいろな分野の先生が混じっているために、自分の担当分野の同僚と仲良くしておけば大丈夫というものではない。ある程度客観的にテニュア付与にふさわしいということが示せなければ、学部外の参加者が反対してテニュア付与はできないことになるだろう。

自分の場合はこの委員会が2月終わりに開かれた。終わるとほぼ同時に自分の学部長から「おめでとう。委員会は君のテニュア付与に賛成したよ」というお祝いの電話をもらう。これがこのプロセスのハイライトである。

第三に、テニュア委員会の決定を受けて、学長がテニュア付与の手続きを行う。これまた長い事務手続きが必要で、最後の手続きが終わったのは7月であった。トロント大学ではテニュア委員会に他学部の先生が参加しているため、そのあとで学長が委員会の決定をひっくり返す例はあまりないようである。(数字を確認したわけではなく、伝聞のたぐいであるが。)なので、トロントではこの第三ステップは純粋に事務手続きの問題だと思っている人が多いようだ。一方、香港の大学ではテニュア委員会が学科レベル、学部レベル、全学レベルと三段階で上がっていく。このため、学部レベルで(つまり、仲間内で)テニュア付与に賛成したのに最後の全学レベルでやっぱりダメと言われるという例が聞いているだけでもけっこうある。シンガポールの大学でもこのどんでん返しのケースは多いと聞いている。こういうことが起きるのは、身内で評価する学部レベルの評価が情に流れて甘くなりすぎるという傾向を是正するために必要なのかもしれない。一方で、評価すべき目線が違う他学部の教授が正しい判断をできずに学部レベルの判断をゆがめているとみる人もいるだろう。典型的には一人で論文を書く人文・社会科学系の候補者(当然論文の本数は少ない)を30人のグループで論文を書く自然科学系の先生が評価すれば、不当に辛すぎる評価になる。何がいいのかは一概には言えないが、ある程度大学の特色が出るのがこの最後のプロセスだろう。

こういう1年がかりのプロセスを経て、テニュア付き准教授なり教授なりになる。自分はキャリアの最初をテニュア審査のないFRBで始めたので(そしてその時点ですでにトップジャーナルに出版できていたので)あまり深刻に悩まなかった。まあ自分のペースでやっていれば大丈夫だろうと思っていたので特にストレスを感じることはなかった。でも、終わってみるとほっとするのも事実である。何度もやってみたいというものでもない。

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