<「語りえぬものを語る」(1)-”こと”→”もの”へ->

<「語りえぬものを語る」(1)-”こと”→”もの”へ->
書 名「語りえぬものを語る」ー哲学への誘い-
著 者 野矢茂樹
出版社 講談社学術文庫
初 版 2020年11月10日

1.知識と、知力と、生きること、と
 帯には「哲学への誘い」とあります。「哲学」という言葉に出会うといつも塩野七生さんの小説「ギリシャ人の物語Ⅲ」の一節を思い出します。アリストテレスの言葉「論理的に正しくても人間世界でも正しいとは限らない」を引用して、知識と知力の違いを示し、「哲学とはもともと知識を得る学問ではなく、知力を鍛える学問なのである」、「哲学そのものからして自分の頭で考えることを教えている」と著しています。
 とかく哲学という言葉から日々の生活とは無縁の“もの”と捉えてしまいがちですが、そうではなくて、日々、情報の錯綜する人間社会(現世)を生きるための“護身術”としての知力を鍛える“もの”だと言っています。人間世界は言葉の論理によって生成された社会的存在であるにも関わらず、その同じ論理でも正しいとは限らないとアリストテレスはいっています。著者野矢茂樹さんも「語りえぬ“もの”を語る」プロセスを通して知力を鍛えることを薦めておられるのかもしれません。著者はあとがきに「語ること」には以下の四つの層があると著しています。
④ふつうにかたりうる”もの”
③語りにくい”もの”
②今の私には語りえない”もの”
①永遠に語りえない”もの”
2.“もの”と“こと”
 著者は本書の立ち位置をこう著しています。(P21)「ウィトゲンシュタインは著書「論理哲学論考」の終わりを『語りえぬ“もの”については沈黙せねばならない』と結んでいる。しかし、自分はこの終着点が、『私の出発点となる』」と。だから書名は「語りえぬ“もの”を語る」となっているのです。
 ゼノンのパラドックスに「飛んでいる矢は止まっている」があります。「飛んでいる“もの”」と「飛んでいる“こと”」の絶対矛盾的自己同一(西田哲学)のことではないでしょうか。哲学者西田幾多郎の苦心惨憺の末の造語です。“もの”“こと”、これを漢字で「物事」と書くと物的な、固まった“もの”をイメージしてしまい、飛んでいるイメージは浮かんできません。「ものこと」とひらがなで書きさらに「“もの“と”こと“」と間に「と」を入れて“もの”と“こと”を分けると本来わけることのできない「矢」(もの)と「飛んでいる」(こと)に分けることができます。空間的に「矢」であり、時間(継起)的に「飛んでいる」という、時空の絶対矛盾的有り様です。さしずめ止まっている矢は「物」ですね。生きている人間は空間的に身体であり継起的に「心」(いのちの活き)である、となりますね。
 釈迦の悟り「空」は「森羅万象のすべては変化してやまない」という“こと”ですから、「空とは何か?」と言葉にすることはできない「永遠に変化してやまない『何か」です。
 書名の「語る」は言葉にすることですから「何か」を言葉にすることで具象化され“もの”として語る(言葉にする)ことができるようになります。ゼノンのパラドクスは空間(もの)的に「矢」であり時間(こと・継起)的に「飛ぶ」であるといっているのだと思います。
3.絶対(永遠)に語りえない“こと”
 著者はあとがきに「語ること」を④→①階層を示しています。書名には「語りえぬ“もの”を」とありますから著者の哲学は①から始まり、オーストリア出身のウィットゲンシュタインの哲学は②から始まっているようです。帯の言葉「哲学への誘い」は塩野七生流に言えば、「今の私」の知力を鍛えるためには心の内の4段の階段を下降せよ、といっているようです。
 階段を下るとさらに下に五感でも感じることができない「何か」があります。それは永遠に言葉にできない「何か」です。それは「永遠に語りえない」“こと”として、言葉にできない「何か」としてあるではないかと。
 一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、宇宙創成それに続く森羅万象のすべては造物主(ヤハヴェ)によって創造された“もの”ですから①永遠に語りえぬ“もの”を始源としているのでしょう。ウィトゲンシュタインが「語りえぬ“もの”については沈黙せねばならない」といった所以ではないでしょうか。みだりに口にすることは許されない絶対神の名ですから。           (図1)           


日本列島では縄文期には「森羅万象に神が宿る」としていました。大乗仏教が伝来し「山川草木悉有仏性」といっています。釈迦の悟りの「空」は「森羅万象のすべては変化してやまない“こと”」です。これも言葉で捉えることはできない「何か」です。ですが、縄文の神も森羅万象の内にある「何か」です。変化してやまない「何か」として神仏混交したのではないでしょうか。
 ①に先立つ「⓪絶対に語りえない“こと”」を仮に言葉にすることで“こと”は“もの”に、著者のいう「①永遠に語りえない“もの”になったのです。老子は名無きは天地の始め、名あるは万物の母と言っていますから、⓪絶対に語りえない“こと”を「タオ」と言葉にし①の領域へ、釈迦の「空」も西田哲学の「絶対無」も⓪領域の“こと”を①の領域の“もの”領域に持ち込みました。それらはみな仮名(けみょう)です。語りえぬ“もの”でありながら、語る手掛かりができました。矢野茂樹さん文庫の500ページを費やして④→③→②と語り①へと肉薄して読者を「哲学へ誘って」くれています。<続く>

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