<「語りえぬ”もの”を語る」(3)>                     -経営とは「いのちの活き」の全機現-


6.個と全体の二重性 
 個を全部足すと全部になりますが、全体にはなりません。とかく言葉の概念の違いを混同してしまいます。部品を全部集めれば機械は動きます。個は部品ではないから個を全部集めても全体にはなりません。戦前の日本の政治体制、ナチスのそれは、正しくは国民を部品として扱った全部主義といったほうが誤解が生じないと常々思っているのです。
 個と個は二元論では切り分けられない“こと”、個と個のあいだに言葉にできないゆらぎがあるからです。「場の思想」を提唱する哲学者清水博さんは卵のたとえ話をされます。生卵を三個割って一つの器に入れると白身は流れて繋がりますが黄身は個々別々に独立して盛り上がっています。黄身だけを集めても卵にはならない、と。
「全体」という言葉は図1.「語りえぬものを語る」の最下層の「⓪.絶対(永遠)に語りえぬ“こと”」を仮名(けみょう)して「①」の“もの”としたのではないでしょうか。
 俳人山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」があります。俳句の型を破って季語も五七五もない自由律で詩って、詩って詩っても詩い尽くせない「何か」とは。僕にはそれは「この世」、とも「人生」とも「大自然」とも思えるのですが。哲学者野矢茂樹さんにもきっと「語りえぬ“もの”」が残るのではないでしょうか。その「残る」ものも含めて全体は全体としてあるのだと思います。個と全体の絶対矛盾的自己同一として。
7.「One for all -all for One」
図3.「家族のいのちの活き」
20240215 家族を構成する「夫・妻・子」個々の個としての命は家族という場の上で活いています。 清水博さんの「場の思想」を借りれば、三つの黄身を包む周囲の白身が家族という場であり、そこにも場としての「いのちの活き」があります。夫、妻、子の個としてのいのちは家族という全体のいのちの活きの上で個として活きつつ、同時にそれが家族という全体のいのちを活かせています。個は全体のいのちを活かせ、全体のいのちの活きによって活かされているという相互の有り様がメビウスの輪に象徴される”こと”であり、宇宙の有り様です。
 図3.家族の三つの個の重なった場の下層には言葉のいのちの活きの世間(現世)という場があります。「家族のいのちの活き」はその世間という名の場によって支えられ活かされています。それは、さらに下層の大自然(宇宙)のいのちの活きによって活かされています。メビウスの輪の象徴する「活かし活かされる」というの永遠の循環は、輪の真ん中の空間の宇宙の有り様を象徴した姿です。
 ラグビーにいわれる「One for all all -All for One」、「一人はみんなのために、みんなは全体のために」の初めの「One」は個、終わりの「One」は全体としての一という意味だと思います。試合の相手チームも、スタジアムの観客も、等々すべての「いのちの活き」のために最善を尽くす,ラグビー場が包む森羅万象のすべてが全体であり、宇宙のいのちの活きの顕現でありたいと。全体最適を目指すこと、禅語にいう「全機現」ということではないでしょうか。
8.経営とは「いのちの活き」の全機現
 図4.「企業のいのちの活き」

企業を成り立たせている主な“もの”は図4.「企業のいのちの活き」、にあるように①.株主、②.経営者、③.従業員、④.顧客、⑤お金、⑥世間(言語世界)、⑦宇宙(森羅万象)、⑧商品・サービス、です。  日本人の「商い」のあり方の姿とされる言葉に「売り手良し、買い手良し、世間良し」があります。近年若い経営学者の中にもそれを「ウィン、ウィン、ウィン」と言葉にする方がおられるので驚きです。言葉に潜む二元論の危うさに気づかず全体が見えない危うさです。20240215_20240215202101企業を成り立たせている主な“もの”は図4.「企業のいのちの活き」、にあるように①.株主、②.経営者、③.従業員、④.顧客、⑤お金、⑥世間(言語世界)、⑦宇宙(森羅万象)、⑧商品・サービス、です。 日本人の「商い」のあり方の姿とされる言葉に「売り手良し、買い手良し、世間良し」があります。近年若い経営学者の中にもそれを「ウィン、ウィン、ウィン」と言葉にする方がおられるので驚きです。言葉に潜む二元論の危うさに気づかず全体が見えない危うさです。 
 「商い」の根源にある「利他≒お役立ち」そして「良し」を勝ち負けの「ウィン」といい、あまつさえ、全体概念の世間をも個として「個・個・個」と扱い、全体という概念が心(意識)の内にないのです。「心」こそ「いのちの活き」そのものです。「人間は見たいと欲する“もの”しか見ない」のです。野矢茂樹さんが「哲学への誘い」として「語りえぬ“もの”を語る」と著する所以もここにあると思うのです。経営学、経済学といったジャンルに携わる人こそ「哲学する」ことが求められるのではないか?と自戒を込めつつ思うのです。 企業を成り立たせている①~⑧の“もの”ここで忘れがちな“もの”が、④.顧客、⑤.お金、⑥.世間(現世)、⑦.宇宙(大自然)、⑧商品・サービスです。己れの都合でしか”もの”を見ていないと売上が立った刹那に④~⑧をすっかり忘れてしまいます。ダイハツは④も⑥⑧をも忘れ、ビックモーター、損保ジャパンは④、⑧のみならず目の前の街路樹という⑥も見えていなかったのです。環境破壊が叫ばれ、SDGsと叫んでも肝心の⑦の大自然はみえていません。 そして意外に見えていないのが⑤.お金です。企業という「場」のいのちの活きの全体を活かしている「お金のいのちの活き」を表現している会計の基本の姿を多くの企業経営者が従業員に教えていないのです。 企業を成り立たせている①~⑧の“もの”は「“もの”即“こと”」のメビウスの輪の有り様として“こと”が「不一不二」として伴っています。それが“もの”を活かせている「いのちの活き」です。①~⑧のすべてが「場のいのちの上で活き、かつ場のいのちを活かせて」います。あらためて確認すると、図4.の真ん中、「いのちの活き」のすべてが重層的に重なったところがここにいう「企業のいのち」であり、重層的に個々のいのちが活いている「場」です。9.経営に終わりはない 禅語の「全機現」は「いのちの活き」がフルに発揮することです。経営とは図4.の中心の場としての企業のいのちの活きと場の上で活く、個のいのちの活き、メビウスの輪に象徴される絶対矛盾的自己同一を全機しつつ循環していく流れです。図5.「経営に終わりはない」

日本人の哲学を世界に問うた哲学者西田幾多郎さんは著書「善の研究」に「全き善」として「自他相忘れ、主客相没するところ」と著しています。「ところ」は「場」のことであり、そこは言葉の二元論で、己れと他者、他物を分かつ前、主体と客体の分かれる刹那の今のところです。
「経営とは」、その「場」であり、刹那の今(時空)を「今→今→今→」と活きつつ循環していく“こと”、永遠の今を活いていく”こと”ではないかと想うのです。そんな想いを図.4「経営に終わりはない」と描いてみました。<続く>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?