見出し画像

「ていねいな暮らし」ができなかった過去と、それを目指している今 — 「生き方」考

yukiです。前回の投稿から、かなり時間が空いてしまいました。

私のTwitterではそのワケを呟いていましたが、本来次のnote記事は、前回のデリダに関する記事に続けて同じ哲学を論じた記事にしたいと思い、永井均さんの哲学の所説(〈私〉論)に対する自分なりの批判を書き連ねようと思っていました…

が、積読の中にあった永井さんのご著書を読むにつけ、その一頁一頁が納得のできないものであり、頁をめくるたびに良書からは感じられるはずの驚嘆や畏敬を覚えることができず、ご本を開くことがイヤになってしまった…そんなところです(ちなみにその丁度読んでいた本とは『存在と時間 哲学探究 1』(文藝春秋)です。著者自身が例に漏れず、本の中で挑発的な書き方をしているが故に、ここで私もまた率直な思いを述べている点についてはご容赦ください)。

少しだけここで批判の一端をご紹介するなら……永井は、どの「私」=身体や精神(これはどのように定義されても良いが、つまるところ「人体」)も全て同じ構造を持っているのに、なぜ現にこのわたしだけが、世界が唯一そこから開け、直に感覚や思考を感じられる〈私〉であるのか……それが最初の驚嘆であるはずなのに、この世界の秩序は、すべての人間が同じように〈私〉性を感じているはずだと、現実的差異と平板に実在化させることで矛盾を解消している……ということを論じています。しかしながら、なぜそもそも、「私」から〈私〉を切り離して考えなければいけないのか、なぜあたかも「感覚そのもの」と「感覚すること」とが分離せられるように捉えなければならないのか、その議論の大前提の確たる論拠を、永井は示すことができていない…と感じています。

これは私なりの「告発」として論じたいのもやまやまですが、ご著書をすべてしっかり読みきれていないというありうべからざる失態のために、ここで中断することをお許しください(興味のある方は、ぜひご著書を手に取ってみてください)。

さて、それではそろそろ本論に…今回は、言うなれば人生論なのかもしれませんが、そんな大仰なもののつもりはなく、私自身の生き方の振り返りにお付き合いいただきたいという(わがままな)趣旨です。

「ていねいな暮らし」ってなんだ?

よくSNSで、「ていねいな暮らし」というワードを見ることがあるのではないでしょうか? すっかり人口に膾炙しているこの言葉ですが、よく「手間ひまをかけて生活をこなすこと」や「ゆとりを持って暮らすこと」の表現として用いられるのではないでしょうか。忙しい生活の中でも精神に余裕を持って、タイムパフォーマンスだけで選択するのではなく、必要不可欠というわけではない所作やまわり道に積極的な価値を見出す…そんな文脈では、時間に追われる現代人の回帰の一様式としての美徳を持っているに過ぎません。

しかし、私は最近、「ていねいな暮らし」という表現を少し違った角度から意味づけして捉え、自分自身を見るメガネとして活用しています。要するに同じようなことを指している場合もあるのですが、何に光を当てているかが違う、といった感覚です。

私なりの「ていねいな暮らし」の定義は、「自分の外側にあるものを、自分の欲望の赴くままに内部に取り込もうとするのではなく、外側にあるものに対してしっかりと向き合って、よく考えを通して、変形させて自分に取り込む」、そういう生活のスタイルという主義である…と捉えています。そのまま取り込むのではなく、ワンクッションちゃんと挟んで、これはどうかな? と考えてから自分自身に受け入れる、そういう生活上の「ていねいさ」のことを指している、という思いです。

自分に対する「ていねいさ」を欠いた過去の私

なぜそんなことを考えているかというと、その基準で見た時に、過去の私の生活は全く「ていねい」ではなかったと振り返っているからです。

人の持つ汎用的なスキルを「課題に対応する力」「他者に対応する力」「自分に対応する力」の3つに分解するフレームもありますが、私は前者2つはそれなりのものがあるとしても、最後の1つ、「自分に対応する力」に関しては本当に程度の低い人間でした。

勉強は昔からできた。苦労なく東大に入り、学生団体やインターンといった課題の活動でも成果を残し、表彰され……今私は勤め先で経営企画などの仕事をしていますが、課題に対するパフォーマンスは(上を見ればもちろんまだまだですが)一定のものを発揮してきているかもしれません。また、「誰かのために」や「組織的な価値のために」という動機で動く、時には自分の犠牲も厭わない、そんな性格であるとも感じています。「自分の状況はなんとかするから、とりあえずxxさんの現状について解決策を考えよう」…そんな姿勢で臨むことも多いところです。

しかしそれは裏返せば、「『自分自身』については割とどうでもいい」という思考パターンになっているのが基本的な私の性格でした。目の前の健康や将来のことを考えて生活習慣や家計を考えるのも元来苦手ですし、周りのタスクはこなすが自分自身に関わる重要事は後回しにしてしまって、結果的に方々に迷惑をかけたこともあります(おかげで大学にも長いこと居ました)。これは細かいところを含めて、私の生活を支配してきた考え方かもしれません。「自分の部屋は多少散らかっててもいいけど、共用部の掃除は頑張ろう」「早く飲み会に行ってあげたいから、別に自分はタクシーを使って現地に向かおう」「こういう組織状態を維持するために、このタスクは私の方で休日もやっておこう」… なんだか卑近なものも混ざっていますが、思い返すと、私の思考の中に、「私自身のことはどうでもいい」というパターンが繰り返されているように感じているのです。

私はここで、私が滅私奉公な聖人君子だなどと言いたいわけではありません。私だって、私自身が一番かわいいものです。苦痛を欲しているとか、そういう話がしたいのでもありません。課題に向き合うことで私自身も評価され昇進できますし、人に向き合うことは私自身の喜びでもあります。しかし、その裏で、私自身の生活の軸や人生設計、将来どうするのか?といったプライベートな領域は、ずっと後回しにされてきた感があるのです。

ここまで説明してきたことを、冒頭の「ていねいな暮らし」の定義に当てはめれば、私は私自身の対他的(社会的)欲望の赴くままに、それを併呑し、処理してきたけれども、その中で私自身の内側に積み上がっているものは乏しい………そんな感情を抱いています。

「ていねいに生きる」ことは、「難しい」。 けど…

そうではなくて、「ていねいに生きる」ということは、周りのことを「自分自身にとってどうか」という観点からよく捉えて、働きかけること。その過程の中で「自分自身」を形作っていくことだと思っています。将来的にこういう生活をしたい、あるいはこういうことを目指したのなら、今これを頑張ろう(生活習慣を整えよう、資金を増やそう、専門性を身につけよう…)。逆に言えば、このことには注力しないようにしようという判断を、しっかり行って生きていく…ことだと思っています。

こう言葉にすると、何を当然のことをと思われるかもしれません。将来も見据えて自分の生活を整える、そんなの当たり前じゃないか!と。しかし、それは私のような「生活力」の乏しい人間には、ちょっとハードルに感じることでもあります。ていねいに生きるためには、実にいろんなことを考えないといけない…仕事で成果を出し、学問に身を捧げるだけではいけないのか! 他人を慮るだけではいけないのか! …こういうとやや戯画化した言い方ではありますが、そういった意味合いでの「生きづらさ」は、私は社会に対して感じてしまっています(「生きづらさ」を真面目に語る上での引け目があるのも事実です。現に私はなんらかの障がいを持っているわけでもなく、それなりの社会的属性を有しています。生活に困っているわけではありません。しかし、それにしたって人生というものはコントロールすべきことが多い。何かに集中している怠惰さは、ある一定以上の幸福を実現する上では許されない…ということを感じています。もちろん、群を抜く圧倒的なパフォーマンスを有していれば、そんな生きづらさなど消し飛んでしまうのでしょうが)。

しかし、私は今頑張ろうと決めて、自分自身の生き方を見直しています。私の
Twitterをご覧になっている方は、最近私が凝った料理をよく作っているかと思いますが、実はその一環でもあります。ご存じないかもしれませんが、私は人生で料理をしてきた経験はそれまでほぼありませんでした。「別に仕事詰めで時間もあんまりないし、食べたいものをUberで注文するだけでいいや」…という「自分への怠惰」からの脱却なのです。そんな生活の更新に今ブーストをかけているのは、新たな目標ができたというのもあります。かなりプライベートなことになるので詳細は書けませんが、(本当の意味で)釣り合う人間になりたいなと…ひょんなことからそんなことを思っています。


「周囲への価値発揮」と「自分への怠惰」で縁取られた我が人生よ…
後悔ももちろん死ぬほどありますが、言っても仕方がない。
私は、私の人生を、生きています。

次回の記事は、いったいどんなものになるのやら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?