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「世間的な評価が定まってから、鑑賞や訪問、入手という行動に移す」人達

価値が世の中に認められると、投機の波に必要以上に巻き込まれる。オランダのチューリップではないけど。美術とかラグジュアリーの領域では特に起きがち。

ある工芸品なり、芸術活動なり、農水産品なり、風景なりがあったとして、そこに価値を認める人が現れるってところまではいいのだけど、

「世間的な評価が定まってから、鑑賞や訪問、入手という行動に移す」人が出始めると、話がややこしくなる。

ブランド製品とか、茶道や歌舞伎のように、国宝やら重要文化財になってるとか、星付きの名店とか、世界遺産に認定されたとか、どこそこに採用されたとか、誰か世間的に一流と目される人が利用したとか、「世間的に評価が定まった」段階でないと、購買や鑑賞のための腰を上げない人、価値を認める行動に出ない人。

逆に言えば、「世間的な評価が定まったモノを購入・鑑賞・訪問する自分・そこに手が届いた自分」を実現することで、成長実感や、向上感といったもの、ひらたくいえば「自分がひとかどの人物になった」ことの確認を得ようとしている。まあ、それはそれで一つの自己実現なんだけど。(貧しい地位から成り上がった権力者が宮殿に美術品や美女を集めたがったり、現代でもトロフィーワイフという言葉があるのもこの構造)

つまり、「誰かがこしらえた評判」に自己の判断を依存していて、「自分自身の感受性をもって本質的に評価を定められない人」、こういう人が押し寄せると、急激にマネーゲームになる。

週末ごとにミシュランの星付き店をスタンプラリーのように回る人たちが、東京だと1000人ぐらいのコミュニティになっていると聞いた。

もはや、『店で提供される美味しい料理そのもの』に価値があるのでなく、料理は横に置いておいて『美味しいと世間で言われている店であること』に、経済的な価値が出てしまってる。

こうなると、その、財やサービスを不必要に不安定なものにする。だからといって『発見』されなければ、価値は伝わらないんだよな。

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