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普通という強力なバイアス

 今年9月からオーストラリアに渡り、毎日ハッチャケている長女。もうすぐ大学も始まるとのことで、期待に胸を膨らませているようです。

 実はその長女、小学校1年生の2学期から不登校になりました。2学期1日行った時点で「もう2度と行きたくない」と宣言したのです。ウチの子達は保育園や幼稚園に入れていませんでしたし、そもそも小学校に行かせるべきかどうか悩んだくらいでしたので、まぁ想定内の出来事。「いいんじゃない」とあっさり同意しました。

 学校に行かない長女の生活は、かなりマイペースでした。朝は10時ごろ起きて、好きな絵を描いたり、ビデオ(その頃はまだyoutubeで動画を見る習慣がなかった)を見たり。お菓子を作ってみたり、庭に秘密基地を作ったり。一応学校に行かない宣言をした時点で、行かないことを認める代わり「家事を手伝うこと」「どんな方法でもいいから勉強はすること」という条件を出していました。(幸い、家事の好きな子だったので、料理や掃除などあれこれやってくれることになり、後々すごく助かりました)とはいえ、世間的には「いいの?これで?」みたいな野放しの状態でした。

 この時点で全く悩まなかったと言ったら嘘になります。ウチはウチ、他所は他所と思っていたくせに、いざとなると「一般的には」とか「普通」ってこんなに気になるんだと初めて気づきました。

 そういう自分がものすごく嫌で、あれこれ悩んだ末に「これって(自分の)親の価値観じゃん」と気がつきました。思えば私は、親の超コンサバな価値観が大嫌いでしたし、価値観を押し付けてくるのも嫌だった。それで大学も家から遠くにしたりして、距離をとって生きてきたのです。なのに、親の呪縛から全く離れてなかったことに改めて気づいた時、愕然としました。結局親から全く自立していなかったんだなと。どころか、反抗することによって親に甘えていたんだと気づきました。そして、三つ子の魂の呪縛の強力さも実感することになりました。

 この気づきがあったからこそ、今があるとつくづく思います。子育て以外のことにも生きているなと。結果オーライとはいうものの、渦中にいれば不安ばかりが募ります。でも、今思えば、その不安の中で改めて違う視座に立って物事を見つめられたことは自分にとってもありがたいことでした。

 起こること全てに意味がある。子供たちには臆せず、信じた道を進んで欲しいなと思います。

 


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