取材拒否

 その日の浅倉家の朝は、日の出とともに始まった。
「んん……」
 布団の誘惑に抗って体を起こした麻子は窓辺に歩み寄り、柔らかな陽光を遮るカーテンを一気に開け放った。群青と黒で染まった部屋に総天然色の輝きが蘇り、麻子の気分もいくらかましなものに変わる。
「……いい天気」
 軽く伸びをしながら麻子が呟く。羽虫除けのために窓を開けられないのが残念だった。今日みたいな快晴の日はそよ風も吹いて、自分の長く艶やかな髪がたなびく様は実に絵になるだろうに。
 ……自意識過剰な想像を振り払い、制服に着替える麻子は一階の台所へと向かった。
「おはよう」
 台所へ向かおうとした麻子に声を掛けたのは、居間のソファに座る父親の弘だ。
「おはようお父さん。すぐに朝ごはん出来るから」
 麻子が笑い返しても、彼女から背を向ける弘はコクコク頭を揺らすだけで、テーブルの上に広げた見取り図から顔を上げようとしない。呆れ顔の麻子はやれやれと首を振り、それからいけない、と仏間にある仏壇の前に座って手を合わせた。
「おはよう……」
 仏壇に置かれた遺影は二つ、彼女の兄の正樹と母の千尋だ。笑いかける二つの遺影に対し熱心に拝む麻子の様子は、例え危急の時であっても話し掛けるのを躊躇するほど完成されていた。だが……
 カンカン、と、羽虫が窓を叩く音が聞こえる。その瞬間、麻子の口からは酷く侮蔑するような舌打ちが漏れた。
「おおい、飯はまだか?」
 今から聞こえた弘の催促に、麻子は先程とはがらりと変わって穏やかに応える。
「はぁい」
 三十分後、麻子は変わらず見取り図とにらめっこしている弘の前に今日の朝食を並べた。
「ん、何だこれだけか」
「お弁当いつもより多いんだからしょうがないでしょ。朝は昼のついでで精いっぱいよ」
 麻子は溜息をつくと録画した映画を見ながら、自分の分のサンドイッチに手を伸ばした。皿に乗っているのは各種サンドイッチにタコさんウインナー、冷凍のから揚げと、いかにも弁当から少しずつつまんだあり合わせといった感じだ。
「少しは時間の余裕もあるが――」
「駄目」
 映画から目を離さず、しかし麻子ははっきりとした口調で拒絶する。弘は少ししょげたような、残念といった表情をつくると、おかわりのコーヒーを入れるため立ち上がった。
 どんどんと、羽虫が壁を叩く音がする。麻子はテレビのボリュームを二段階上げた。
「時間が肝心なのよ。予定通りに、忠実に」
 戻ってきた弘からコーヒーを受け取ると、麻子はそれを一息に飲んでテレビをねめつける。席に戻る弘は見取り図に視線を戻して溜息交じりに問うた。
「本当に、後悔は無いんだな」
「ない……って言うと、嘘になるけど……」
「だったら――」
 期待を込めた弘の半目は妖艶に笑う愛娘を捉えた。麻子本人は不敵に笑っているそれも、他人から見れば蠱惑的な魅力を放つのが彼女の恐ろしい所だ。
「何かを得るには、対価が必要なものよ」
 カン、カン、と、ガラスに当たる羽虫の音。衝動的に、麻子の手がテレビの音量を上げた。

 麻子の兄、正樹が通り魔に刺されたのは二ヶ月ほど前の出来事である。
 心臓を患った母の見舞いの帰りだった。傘をさして歩いていた兄の背中を、通り魔はスクーターに乗ったままナイフで刺すという奇怪な方法で殺害した。おかげで物証も証言も乏しく、警察の捜査は難航したのだ。
 進展のない捜査、目撃者不足でキャラクター性の不足した犯人像。となると衆目は自然と被害者の方へ集まったのである。
 兄は生前品行方正、襲われたその日も母親の見舞いというだけあって、悲劇の主人公としてはもってこいだ。
特ダネを切り抜こうと兄の葬儀に殺到する弔問客、もとい、マスコミ陣。その雑踏を掻き分けながら遺族と、兄を納めた棺は火葬場までの移動を強いられたのだ。
麻子は今でも覚えている、人垣に向かって怒鳴る父の後ろ姿と、人波に体調を崩し力なく自分にもたれかかる母の重みを。それから迂闊にも衆愚の垂涎の餌となってしまった、自分の頬を濡らす涙を。
その日、大衆の餌食は兄から自分へと変わったのだ。
――浅倉さぁん、いるんでしょぉ。
 羽虫の鳴き声がするたび、テレビの音量は上がっていく。連中が喚くには兄を殺した下手人が逮捕された、その感想が聞きたいのだと言う。
 自分達の渇きを癒すあの、甘美の涙を与えよと言う横柄な要望は、麻子の耳に入ることは無い。
「兄さんが死んだとき、私はまだ泣けたわ」
 バンッ、バンッ、と、手のひらでドアを叩く音。テレビの音量は上がる。
「友達に見捨てられても、先生に見捨てられても、涙は止まらなかった」
 テレビの画面を映すだけの胡乱な目。リモコンを持つ手が小刻みに揺れていた。
「でも母さんが死んで、アイツらの声が声に聞こえなくなって……そうしたら涙も止まっちゃった……」
「麻子――」
「足りないの」
麻子の口端に一瞬、苦痛の歪みが現れ、そしてまた微笑にかえった。
「どれだけ食べても、何をしたってちっとも足りない……満足したっていう感覚が来ない」
「……」
「私はねぇ、父さん。もうアイツらを食べてしか生きられなくなったの。アイツらをどうにかすることで頭が一杯で、だから……」
 弘に振り返った麻子の笑顔は、これまでで最も強い誘惑に満ちていた。
「いっしょが嫌なら一人でいくよ」
 不敵な笑みを浮かべる少女。その指は笑顔とは裏腹に、病理的な痙攣でもって音量ボタンを連打し続けた。哀れな娘の姿を弘は直視せずに答える。
「……玄関は任せろ。車を回しとく」
 そう言って立ち上がると、弘はソファの近くに置いたボンベを背負う。ボンベとライフル型の散布機がチューブで接続されている事を確認した彼は、玄関の方へと向かっていった。
――何だ親父の方か。
 羽虫が発した不躾な挨拶が一転、絹を裂くような悲鳴に変わってすぐに止む。除草用火炎放射器の、引き金を離すとすぐに炎が止まる特徴のおかげで、麻子は焦ることなく悠々と、羽虫どもが焼き殺されるのを見物していた。
「さて、したくしたく」
 鼻歌交じりの麻子がソファの座面に手をかけ、収納部分に収められた道具を取り出す。垂直二連、休学中に練習した狩猟用のライフルに鉛玉を込めながら、麻子は上機嫌に玄関ドアを開け放った。
「ふふっ」
 玄関前に転がる焼死体を、麻子のローファーが土くれのように蹴飛ばす。羽虫の死体は庭はおろか表通りまで、何か恐ろしいものから逃げるように体を歪ませて転がっていた。
 その醜い置物の一つ一つに麻子は視線を走らせる。屈強な男、上品なOL、なよなよした三流雑誌記者。生前はバラバラだった外見も、上半身が火傷に塗りつぶされたことで実に分かりやすく纏まっていた。
 人の血を吸い、食い物にして生きる羽虫にはふさわしい外見だ。まだ息のある、赤いぬめぬめしたマニキュアの羽虫に、麻子は嬉々として銃口を咥えさせる。
「特ダネの味ってどんな感じ? ……今度教えてね」
銃声。羽虫は赤黒い花を地面に咲かせ、麻子は弘が待つ軽トラックに乗り込んだ。
「普段避けられてたのにこっちから出向いてやったら、アイツらどうするかな」
「泣いて喜ぶさ」
 玄関での凶行ですっかり吹っ切れた弘が笑って返す。
「弁当は持ったか? 弾は?」
「大丈夫。父さんこそ、火炎放射器はちゃんと動く?」
「見ての通りだ」
「社屋の見取り図は?」
「ある。ついでにIDパスも貰っておいた。これで無駄に殺さなくて済む」
「よし、それじゃあ……」
 狭い車内で麻子は、決意を示すかのように拳を突き上げる。
「浅倉家密着取材班、旭新聞本社に向けぇ~、しゅっぱーつ!」
彼女の一声を号令に、軽トラは死臭漂う通りを抜けて、朝の爽やかな空気の中へ繰り出した。目標が集まる役員会議まで残り20分、朝方ならば社屋を移動中に咎められる心配も殆ど無い。熱が残る銃身を抱いて、麻子はこれから起きるだろう宴の妄想にほくそ笑んだ。

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