モダン・カニバル

「あの、小暮さんですか?」
 言ってしまった。俺は膝が笑いそうになるのを耐えながら、駅前のベンチに座る爺さんに声を掛けた。
「そうだけど、アンタは?」
「俺、息子さんの同僚です。ちょっと息子さん来れそうにないんで、代わりに金だけ受け取りに来たんですけど」
「徹の……友達か」
 バレたか? 含みを持たせる爺さんはふらふら体を揺らしているが、その目が真っすぐ俺を見つめ返してくる。覚悟はしてたけど、実際向き合うとしんどい。眠っちまいそうな目だが、その目がいつ真実に気付くか気が気でなかった。
 焦ってはいけない。小さく息を吐いて俺は爺さんに向き直る。これから焦るべきは俺じゃない、この爺さんの方だ。
「はい……バタバタしてて悪いんですけど、ホントに金払えないと息子さん会社に訴えられちゃうんで、出来れば早めに……」
「この金があれば息子は大丈夫なんだな?」
「あ、はい。大丈夫す。無くした会社の金は、俺達で何とかごまかすんで」
 目を閉じて、肩を落とした爺さんが馬鹿もんと漏らすのが聞こえた。そして目を開いた時、爺さんは金の入った封筒を心細げに俺に託した。
「二百万ある。これを」
「あざ……ありがとうございます」
「それとあんた」
「はい?」
「名前は?」
「……小林です」
 爺さんはその時、初めて体を揺するのを止めた。
「息子を、頼みます」
「……っす」
 俺は頭を下げると一目散に駅へと駆け出した。爺さんの眼には、自分の息子のために息せき切って先を急ぐ良い同僚に見えたことだろう。
 俺の頭にあったのは初仕事が上手くいった感動とやってしまったことへの後悔だったが。

「初仕事を祝してぇ~、乾杯!」
 今夜何度目かの乾杯を聞き遂げながら、俺はカウンターで一人、渡されたグラスの中身をちびちび飲んでいた。
 こういう空間は苦手だ。取り分もらってハイ解散、というのが俺の理想形。だがいわゆる半グレや犯罪者集団ってのは集まるのが好きなのだろうか、まだ興奮から覚めない俺達新米を囲んで喚いたり叫んだり、しまいにゃ粉入りのパウチなんて持ち出して、初給料を貪ろうとする。
 早々について行けなくなった俺はハブられ、いや、ハブにされるよう振舞って、一人寂しくグラスの中身を舐める。なんだかってウイスキーは辛いだけで味も分からない。
何も分からない。酒も同期も先輩も。
詐欺の受け子なんてして、何を得たかったのかも。
カウンターに置いた封筒、給料二十万円もその重さを感じない。
ぼんやりとして掴みどころのない俺の人生は、洒落たバーに来ても変わらないのか。
そう思って、家に帰ろうとした時、ワインレッドのマニキュアをした指が、俺のグラスの前に差し出された。
「もう一杯、お注ぎします?」
 少し年を食った女のバーテンだった。髪をショートボブにして重たい印象を与えないようにしているが、向こうで仕事仲間とふざけている女の子たちの軽やかさには敵わないし、声も若干低い。赤黒い口紅の似合う、大人の女だ。
「え? えっと……いや、もう帰ろうと思って」
「お一人で? 言っては何ですが、せめて帰る時間くらいは揃えた方がよろしいのでは?」
「ま、まあ……そうなんだけど、ね……ハハハ」
 初めて話し掛けられるタイプの女に、俺はしどろもどろになる。女は微笑をたたえたまま、俺のグラスに同じ酒を注いだ。差し出されるグラスの中身を、俺は眉間にしわを寄せて一気に呷る。
「……お気に召しませんか」
 女が、ちょっと困った顔になって言った。
「いや……どんな酒でも一緒だよ。飲む相手も居なかったし、こういう集まり自体が苦手なんだ。例えビールでもカクテルでも、結果は同じだ……」
「確かにお客様は、お連れ様のような方とは、あまり連れ添うタイプに見えませんね」
「そうなんだ……ぜんぜん違う世界から飛び込んでさ、そうしないと、俺の人生いつまでもパッとしないんじゃないかって……でも、そんな事じゃ変わらないんだな……」
 仕事を終えた興奮も、罪を犯した罪悪感も、今は遠い昔の記憶みたいに朧だ。自分から脱出できない絶望に流されて、俺は今夜もいつも通り退屈している。
「なあ、バーテンの仕事って楽しいか?」
 酒も回ったのか、小学生が親にするみたいな質問をする俺に、女はやや目を見開いた後、初めて可笑しいと笑った。
「楽しくないとは言いません。ですが、私の場合これしかなかったというべきでしょうか」
「へえ……お姉さんみたいな人なら色んなところに行けそうだけどなぁ」
「行きましたよ。それでバーテンが一番マシでした」
「例えば……どんなところ?」
「昔は私も、あそこにいる女の子達みたいに騒ぐのが仕事でした」
 女が視線で示したのは、俺の同僚が女の子とふざけ合っている席だった。懐かしそうに見つめる女の眼が、少しだけ憂い気だった。
「ああいうのは、若い子でないと難しいですから、引き際を弁えないとひどい目に遭います」
「お姉さんの周りに居るの? 酷い目に遭った人」
「殆どはそうじゃないでしょうか。私のように身を引けた人の方が少ないですね」
「賢いんだ」
「運がいい、の方が当てはまります」
「運でも……今の俺はあやかりてえな」
 最後に出た本音は、赤点のテストを隠すみたいにそっと言った。
 運でも神でも仏でも、何でもいい。俺をこの退屈から遠ざけてくれるなら。でもあまりあけすけに言うのも憚られる。
 隠したいが隠したくない、微妙で身勝手なニュアンスを含めて振舞う俺に、女は白く細い指をカウンターに這わせながら顔を近づけて来た。
「あやかって、何が欲しいの?」
 耳をくすぐる、女の吐息交じりの問いに俺はハッとする。横を見ると、ファンデーションで誤魔化しきれない血色の良い肌が、乗り出せば唇が届いてしまう距離にあった。
「欲しいって……金とか女、とか……」
「どうして? 何故?」
「……皆欲しいだろ」
「聞いてるのはアンタの理由よ」
「……分からない」
「それなら、アンタはいつまでもアンタのまま」
 俺の頬に女の吐息が張り付く。落ち着き払っていた彼女の眼は、閃光が瞬いて獰猛な捕食者の眼になる。
 明らかな、目に見えた危険。だが女は怪我してでも冒険しなくては変われないと、視線だけで暗に訴えかける。後はもう、俺に委ねられた。女の鎖をといて滅茶苦茶になるのも、ビビって帰るも俺次第。
「なあ……良かったら、教えてくれないか」
「顔色窺ってんじゃないよ、悪党のくせに」
 赤黒い口紅の間から、女の白い歯が覗く。
健康的? いやどちらかと言えば無機質な、月夜に濡れる刃のように鋭い歯だ。
覚悟を決めろ、もう飛び込んじまったんだろ? そう言われたような気がして、俺は委縮しきった顔を精一杯引き締めた。
「……教えてくれ、俺の理由を。こんな自分で居続けるのは、もううんざりだ」
「ちょっと弱いけど……まあ良いか。ソファで待ってて」
 カウンターを立った俺がソファに座って三分ほどたったあと、女は盆に氷と酒と二人分のグラスを持って現れた。
「着替えてくると思った」
「その方が良かった? でも私の経験上、アンタみたいに臆病な男は――」
 言いながら、女は俺のすぐ隣に腰を下ろす。
「あんまり水商売って服装より、こっちの方が特別感あっていいでしょ?」
 聞きながら、全くその通りだと俺は思った。
 カウンターで隔てられている筈のバーテンが、自分に肩をくっつけてマドラーを扱うなど、以前は想像も出来なかった。気があるのかないのか、境目を移ろいゆくような女の振る舞いに、そういうやり口だと分かっても胸が高鳴る。
「ああ、コイツは……たまらない」
「でしょう? さ、出来た」
 差し出されたグラスを俺がとろうとする。
 すると、グラスは遠のいて女の尻が俺の膝の上に乗っかった。
「お、おい……」
「いいから。任せて」
 上がりかかった俺の腰は、女の重みで無理やりソファに押し付けられる。抵抗は無意味だ。力が抜けた俺の顎に、女はそっと右手を添える。赤黒いセミグロスのマニキュアを塗った指は、程よく冷たくて心地良い。
 女は作った酒を少し口の中に含む。そのまま呑み込まず、女の唇が俺の唇と重なった。
 花みたいに爽やかな香りと、むせ返るアルコールの熱気が、俺の口の中に広がる。
 初めて味わう唇の感触に、冷め切った俺の心は、一気にのぼせ上った――

「俺には、一円も出せねえって、アイツらはそう言ったよ……!」
 朧げな意識のまま、女の胸に甘えながら泣きながら、俺はそう零していた。
「優秀な兄貴に使う方が有意義だから、お前の聞いた事も無い大学に出す金なんかねえって……大学院行きてえのは兄貴の勝手だろうが! それでなんで俺が割を食わきゃなんねえんだよ! 入学費納める前日に言うんじゃねえよ!」
 クソだ。自分で思い出して、忌々しさをコップと共に床へ投げつける。飲み下して溜め込んでいたものが、次から次へと口を突いて出る。吐き出してしまう。だがもう、構うものか。こんなものを溜め込んで我慢しろという方が偽善だ。
「優秀じゃなきゃ金すら出してくれねえのかよ……テメエで勝手にこさえた子供の責任も取れねえお前らよりはマシだ! 何だって俺がワリを食わなきゃなんねえ……!」
 泣き喚き、怒鳴り叫んで、慣れない酒で喉を焼く。
 傍から見れば情けない酔っ払いに他ならない。俺は自分自身が道端で見かけては馬鹿にしていたものに堕ちていく。押し寄せる罪悪感と怒りの間で、何もかも投げ出して走り出したくなる衝動が高まっていった。
 遂には詐欺師にまで落ちた。こんな救いようのない人生に未練なんてない、クソッたれの両親とどう違う。湧いてくる偽善に任せて、全て無茶苦茶にしてやりたい気分だった。
 そんな俺を唯一この世と繋ぐのは、埋めた顔に感じる、女の胸の確かな鼓動だ。
「それでも……今日は勝てたんでしょう、坊や。なら世の中、捨てた者じゃないんじゃない」
 どこか湿り気を感じる声で、女は優しい言葉で俺を包む。
 そういうものか? 疑念を抱く俺の頭を、ひんやりした女の手が軽く撫でた。ささくれ立った心が、少しだけ丸くなったような気がした。
「坊や、アンタだけじゃないわ。昼間の世界で苛め抜かれて、こんな場所に流れてこなきゃならない人は、実はとっても多いの」
「お姉さん……」
「恵子。さん、なんてつけないでよ」
「俺は……忍。恵子、アンタもそうなのか?」
「ここに居る女の子は大体ね。そうしてみんな、弱い自分が勝つためにどうすれば良いか学んでいく。坊や、私達が昼間の世界に復讐しようと思ったら、それしか方法は無いわ」
「復讐……」
「そう、復讐よ。アンタを捨てた連中全員にね」
 俺が見上げた時、恵子は目を細めて俺の方を見つめ返してくる。
 くっついた睫毛の間から覗く、御影石の瞳は妖しく笑っていたけれど、
「復讐よ、坊や。甘美な響きでしょう?」
「復讐か……」
 血の色をした唇が繰り返す言葉を、俺は一緒に繰り返していた。
 繰り返す度、俺の中で不定形を取っていた怒りが、段々と形を持って顕現していくのを感じていた。
「復讐……そうか、復讐だな」
 確かめるように繰り返す俺に、女は白い歯を覗かせて微笑んだ。
 そうだ。何もしないで死ぬなんて馬鹿馬鹿しい。勇気づいた俺は、昼間騙した爺の顔を思い出していた。その皺くちゃの顔に、親父の顔を重ねて。
 とても似ても似つかない、年齢だって爺の方が二回りは上の筈だが、一度重なったものは引き剥がしようもない。二つは一体となって、敵として俺の心に認識される。
 そうとも。あの爺さんの金だって、昼間の世界では生きられねえ奴らから、むしり取った分が入ってるじゃねえか。俺みたいな人間を食い物にして、いい思いをして得た金だ。爺の息子と一緒くたになって、俺みたいな人間から、親父と兄貴みたいに。
 奪われた金を、奪い返して何が悪い。
「恵子」
「なに?」
「分かったよ。俺の理由、金が欲しい理由が」
 分かってしまえば、簡単なことだ。
「奪い返すんだ。俺が奪われてきたモノを取り返して、奴らには二度と渡さねえ。そしてアイツらが土下座して媚びへつらう前で女に、酒に変えてやる……!」
 恵子のグラスをひったくり、中身を喉の奥へ流し込んだ。
 熱い。俺が飲んでいた物とは比べ物にならない程の強さだったが、今はそれが心地いい。
 今まで俺が味あわされてきた辛酸の味だった。だが今日味わうのは俺じゃない。あの爺やその息子、そしていつかは親父や兄貴どもだ。アイツらの不幸をこうやって薄めて味わって、想像してほくそ笑む。奴らを食い物にしてやったという快感が脳を駆け巡る。
 酷く退廃的で、ねじ曲がった酒の飲み方だろうが、もう俺にはそれしか残されていない。すべて昼間の連中に奪われたから。
 味わえ、苦しめ。グラスの中の氷まで呑み込んで、俺は笑った。今までこんなに笑ったことは無いんじゃないかってくらい笑った。奴らの苦しみと思って飲む酒は、酷く辛くて、キツくて、爽快だ。
 そしてこんな酒を飲んで平然としていられる恵子は、見惚れるほど美しい。
「自分のが欲しいなら言ってよ……」
 そう言って指をあてた唇が、ぬらぬらと光って色っぽい。
 こんな女を、俺をコケにした奴らの前で抱いたら……胸がすくような気分だろう。
 いや……きっとそれこそが、俺が金を欲する理由。
 女を欲する理由、悪を成す理由。
 きっと俺が……生きる理由。
「恵子。最初にやったヤツまたやってくれよ。それで俺は、やっと自分を許せる気がするんだ。生まれ変われるんだ」
 いいわよ、と恵子は首肯で示して、開いているグラスに酒を注ぎ始めた。ジュースを追加して、マドラーでかき混ぜる。マドラーを持った恵子の、引き締まってやや血管の浮いた手が、俺の欲望を掻き立てた。若い女の子たちとは違う、冷たいが落ち着いた、大人びた雰囲気の手に何を重ねているのか、俺自身良く分かっていなかったが。
「さぁ、出来たわ」
 告げた恵子を迎え入れようと、俺は邪魔な両手をソファの背もたれに置いた。空いた俺の膝に座る、恵子の身体は女性らしく軽いが、体重とは違う重みが俺の身体にのしかかって、俺はさらに深く腰掛けた。俺を射すくめる、彼女の艶やかな視線は主導権がどちらにあるのかを暗に告げる。
「いくわよ」
 取り込まれる。一瞬よぎる恐怖に似た感情は、恵子の右手が後ろから絡まるように俺の頬に触れた時霧散した。ソファと、恵子の重みに全てを委ねて、ただじっと時を待つ。少しずつグラスの中身を含んでいった恵子が俺の方を向き、その唇を近づけてくる。
 今度は軽く触れるなんてものじゃない。貪るような熱い口づけと、喉の奥まで焼き焦がしていくアルコールの熱気にやられ、俺の上体はソファに預けられた。
「お休みなさい、坊や。あとは忍に任せなさい」
 刃のように美しい歯を見せて笑う、血の色をした唇。俺は微笑み返しながら頷いて、意識を途絶えさせた。

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