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ありふれた父親の姿

「大脳皮質基底核変性症」

今から4年半ほど前、2017年の8月に、私の父親に付けられた病名だ。
今年の正月、この父親が「誤嚥性肺炎」を患い入院することとなった。

この辺りのことを私自身の備忘録的日記として記録しておきたい。

大腸ガンが治癒!しかし・・・

2015年に大腸ガンが見つかったのだが、幸い早期の発見だった為、切除手術することで治癒した。しかし、術後のリハビリ中、いつまで経っても体が思うように動かないという。特に左手が動かしづらいとのことで、改めて検査してもらった。

結果、冒頭に記した「大脳皮質基底核変性症」の疑いあり、と診断された。

「この病気は難病に指定されていて、現在ではまだ有効な治療方法がない」「そのうち少しづつあちこちの筋肉が硬直しはじめ、食べ物や飲み物の嚥下が困難になる」「発病したら5〜10年で生活機能が失われ、植物状態になる」と聞かされた。
話を聞いた母親も、私もショックだったが、体の丈夫さだけが自慢だった父のショックは相当大きかったと思う。

体の丈夫さだけが自慢だった父

親父は和歌山の山奥で生まれた。
子どものことから川や山で遊び、山で学び、山で鍛えられた。
7人兄弟の末っ子として生まれ、大人になって大阪に出てきてからも町工場で職工として働き、同じく高知県から大阪に出てきていた母と見合い結婚をした。
私と姉の二人の子どもを、何不自由させることなく育てあげた。
タバコも吸わず、酒も晩酌に瓶ビール1本空ける程度。家のとなりがパチンコ屋さんという環境にありながら、お小遣いの範囲で遊ぶ程度だった。
私がまだ小学生だった頃、たまにご飯ができた、とパチンコ屋さんに父親を迎えに行ってたことがあったが、その時のお店の爆音とタバコの匂いがイヤで、白煙がひしめくお店の中を全速力で走りまわって父親の姿を探した。

そういえば私が小学生だった頃のクリスマス。
朝起きると当時流行していたスーパーカーのポスターが置いてまくら元においてあり、大喜びしたが、数日後、いつものように親父をパチンコ屋に迎えにいった時に、同じポスターがパチンコ屋のカウンターに貼ってあったのを見て、子どもながらに苦々しく思ったこともあった。

和歌山の実家に帰省すれば、水を得た魚のように、樹木が茂る山肌をかけのぼり、何時間も戻ってこなかった。山に分け入る父親の後ろ姿を見て親戚一同は「あ、また野生に帰ったわ」と笑って見ていた。しばらくすると身体中に泥や葉っぱをたくさん付けたまま、山菜や虫をたくさん捕まえて帰ってきた。
小学生の頃は、半日山の中を彷徨い、クワガタやカブトムシを数十匹も捕まえてきたこともあった。

お笑いが好きで、「オヤジギャグ」を連発しては周りを笑わせる(凍らせる?)のが好きだった。
一方で、あまり社交的とはいえない性格もあり、子どもの頃は休みでも家族といつも一緒にいてくれた父親だった。
30年ほど前から地元町内会の防犯委員になり、公民館のカラオケ大会にも参加するようになって友達も増えて行った。

健気にリハビリ治療を続けていた時も、父が塞ぎ込まないようにと、町内会の集まりや小旅行にも誘ってもらったり、毎日のように喫茶店につれて、井戸端会議に参加させてくれていた。
そのうち自力で歩行することも困難になり車椅子生活になってからでも、友達たちは父のことを気にかけてくれ、自宅まで迎えにきてでも、喫茶店に付き合ってくれるようになった。

初期症状

発病した時は、自動車の運転中に左にハンドルを切ることが難しくなった。左手がうまくハンドルに添えることができなくなってきた。同時に、左側の視界が覚束ないようになってきたらしい。薬を処方してもらい、リハビリを開始した。
そのうち、普通に歩いていてもバランスを崩して転ぶようになり、自分だけでは歩行できなくて、介助が必要になった。
夜、トイレに起きて用を足すこともできなくなり、しばらくは私も同じ部屋で寝泊まりするようにして、トイレまでつれていく生活をしていた。
一晩に3回ほど起こされるので、仕事が休みの前の夜でないと厳しかったが、母親と交代で対応することにした。

成長と退行

生まれたての赤ちゃんが、何年もかけて成長し、右肩上がりに「できること」が増えていく。「寝返りができた」「はいはいができた」「つかまり立ちができた」「固形物を食べれるようになった」「伝い歩きができるようになった」「一人で立って歩けた」「走れるようになった」「言葉を覚え、コミュニケーションが取れるようになった」そしてやがて社会の一員として自立していくのだが、それとは逆に、父は何年もかけて少しづつ退行し、右肩上がりに「できない」ことが増えていった。

子どもの成長は「喜び」の連続だ。子育ての苦労も、そんな喜びと相殺しても余りあるほどに、子育て、子どもの成長は嬉しい。
対して「大脳皮質基底核変性症」を患った親父は、自立した社会人から、生まれたての赤ちゃんのレベルまで、成長と同じくらいゆっくりと時間をかけて遡っていった。


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