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◆大幅修正:第5稿 「お」わりのとき(終わりのとき)

※これは、2019年9月7日に公開後、ほぼ書き直し、2019年9月8日に再公開したものです。


今日は、昨日と同じ方法で書いてみます。いろいろお試し中です。


ここでは、「あ」から順番に、それを頭文字とする言葉をテーマとして文章を書いていきます。


今回のテーマは「お」わりのとき(終わりのとき)にします。




終わりって言われると寂しい感情が湧いてきませんか?


でも、人はすでに、産まれた時点でリミットがあることは決まっていて、ただその制限の中に何をぶちこんでいくかだけであるように感じます。


その制限がある中に何を入れるか?

子どもの頃は親の好みや事情で決まることが多く、大人になってからは、自分で選べたり、選んでいるつもりで実は、自分の中にあるいろいろな思い込みで自分を制限している場合もあったり。



終わりのときって、どこか自分でも気付いていて、ただそれを見たくなくて、自覚しないよう自分を誤魔化す。

そして、どうにも誤魔化しきれなくなったとき、ようやく自分に観念する。

そんな感じであるように思います。


また、終わりのときって、引き剥がされるようなヒリヒリした痛みや、今までの積み重ねとお別れする寂しさ、これからの変化に対する怖さ、前の見えない不安などの感情の先に肚が決まるのではないか?

そこに至るまでに散々考え、さまざまな感情の起伏を受け入れ、どう頑張ってもこれまでそれらに使っていた自分の中のスペースを埋める手立てが思い付かず、ようやく諦め、寂しさを受け入れ始めるような気がします。



もちろん、終わりを自覚したからといって、必ず終わらないといけないなんてことはなく、そのままそこに留まることを選べる場合もあります。


でも、私は、怖くても前に進みたいなぁと思っています。

というのも、もし自分の中の自覚を誤魔化してしまったら、自分の心が死んでしまうのではないか?

私はそっちの方が怖いと思うからです。



さて。

あなたはどうですか?


終わりを自覚したとき、どういう過程を経てそれを受け入れていますか?


また、あなたは怖くても前に進みますか?

それとも、自分の気持ちを押し込めてそこに留まることを選びますか?

今はどうですか?



今日はこれにて終わります。

今日も読んでくださりありがとう!


written & photo by Y.Megumi

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