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台湾紀行

GW前半に台湾へ旅行した。

行きは4月26日(金)22:10成田発の、ピーチ航空の便だ。婚約者Mとともに、最前左側の席にすわった。正面ガラス越しで、ふたりのCAが終始笑顔でおしゃべりしていた。

深夜に台北桃園空港へ着き、セブンイレブンで悠遊カードという交通系ICカードを買う。私はセーラーマーキュリー、Mはバッドばつ丸のものをえらんだ。ふたりは3:00の深夜バスに乗り、台南のさらに南にある高雄という街へ向かった。

夏の装いで来たがバス内は冷房で異常に寒く、持ってきた服やタオルをすべて使い体をおおわねばならなかった。ほかの乗客はへいぜんとしているから、最後列の席にすわったのが運のつきだったのだろう。

眠りにおち、寒さとともにめざめ、窓の外の風景を見つめながら、茶色い町だなとおもう。道路も畑も建物も、おなじ色を共有している。台湾は地震も多いはずだが、建物の新陳代謝が進んでいないのだろう。そういえばパキスタンも、ベトナムも、スリランカも茶色かった。ひさしぶりの海外だ。先月パスポートを再発行した。

朝7時半に高雄へ到着。空気がぬくいのがうれしかった。空は青く灰色で、茶色い土地とまざってぼんやりしている。雨のなか折りたたみ傘をさし、ふたりは美麗島駅のほうへ歩いた。髪がピンクだからか、すれちがう者はみなMのことを見ている。いたるところに黄色いレトロなゲームセンターがあった。

二階の張りだした、いわゆるオーバーハング建築の建物が多く、雨よけにその下を歩いた。日本にも屋根つきの歩道はよくあるが、ここでは建物の二階以上がまるごと張りだしている。雨が多いからじゃないの、とMが言う。

事前にマップにピンしていた、「明星」という早餐店(朝食店)へ入った。「入った」といっても、屋内外にだらっとテーブルがつづく、アジア圏に多いあの屋台のような食堂のようなかたちの店だから、「店に入った」というよりは「仲間入りした」みたいな感覚だ。

ほかに観光客はおらず、現地人で満席だった。雨合羽を着たバイク乗りがたびたびあらわれテイクアウトする。私たちはコーン入りの蛋餅(卵クレープ)、豚の漢堡(ハンバーガー)、ツナをはさんだ吐司(トースト)、豆漿(豆乳)を注文した。店員のおじさんもおばさんも人当たりよく、私が二外でおぼえた中国語を披露するとよろこんだ。

私たちは二日目の昼まで高雄におり、あとの数日は台北ですごした。なぜわざわざ高雄まで行ったかといえば、プチ前撮りを撮ってもらうカメラマンが高雄でしか確保できなかったためだ。ラブグラフというアプリで見つけた。

旅行中はつぎつぎ新しいものを見、新しい場所へ行くから、一日があまりにも長く感じられる。たとえば初日にやったことをぜんぶ書いてみると、このようになる。

早餐店を出たあと、ふたりは美麗島駅のオープンスペースでくつろぎ、歯をみがいた。地下鉄のオレンジラインにひと駅乗りホテルへキャリーバッグをあずけ、Uberで高雄歴史博物館へ行った。博物館をひとまわり見てから、小定珈琲という純喫茶ふうの喫茶店でコーヒーを飲んだ。鴨肉珍という店で二十人ほどの行列にならび鴨肉飯を食べた。第二アート特区へ歩き、鉄道の跡地エリアを散策した。路面電車で高雄展覧館駅まで移動し、ふたりでフットマッサージを受けた。私は人生初のマッサージなのでドキドキした。大遠百というデパートの、誠品書店という大手チェーン書店を物色した。Uberで16:30ごろホテルへ。ホテルはキャンペーンで二万円割引されている。服を着がえ、18:00から六合夜市で、現地カメラマンにプチ前撮りを撮ってもらった。さいわい雨はやんでいた。撮影中に夜市でダージーパイ、甘いトマト串、炕肉飯、乾麺、薬膳スープ、豆花を食べた。何種類かの射的もやった。撮影は20:30におわった。帰りにファミマでお茶を三本とエナドリを一本買った。私はホテルで無意味に一時間以上かけて手洗いとドライヤーで洗濯した。外は大雨。テレビの高雄プロモーション映像で、住宅がすべてカラフルなイラストで塗装されている迷迷村という地区を知り、明日行こうとおもう。1:20就寝。

大手ゲームセンターTom's Worldで撮った前撮りの一枚

それから数日をすごし帰国したが、台湾旅行をふりかえってみると、移動ばかりしていたなと感じる。

徒歩で、電車で、新幹線で、バスで、タクシーで、自転車で、とにかく移動ばかりしていた。そしてそんなとき一番、この土地のことを感じられた気がする。なにを感じたのだろう。レンタサイクルのYouBikeに乗っているとき、バイクに注意しながらルートを追うことで頭はいっぱいなのだが、なんといえばよいか、空気がなまっぽく、いま自分の体が明るみに出されているのだという感覚があった。

景色が映像のように動く。それはつぎつぎ過ぎ去って、記憶のふちにものころうとしない。興味の対象はあっというまに立ち消え、今度はべつの新しいものへ心をとらわれてしまう。夜空の雲間から、ビルも、木々も、車も、ネオンも、あらゆるものがおなじ流線でつらぬかれている。私はそれに手をのばそうとする。

こういう感覚、一度きりの出会いへの感傷と焦燥は、どんな旅先でも生じるものかもしれない。だが私は、『台湾海峡一九四九』のつぎの一節をおもいだす。本書は国共内戦に敗れた国民党軍と民衆の台湾移住を、外省人(移民)の立場から描いたノンフィクション文学であり、下記は著者の兄の名前についての言及だ。

「應達」という名の意味はおそらく、あの戦乱の真っただ中にいた人でなければ理解できないだろう。自分が行きたい場所へ「達」することが難しかったあの時代、親は、どこかへ「達」することを願い、子供に託したのだろう。

龍應台『台湾海峡一九四九』、天野健太郎訳、白水社、2012年、27頁

外省人は故郷を追われ、テンダーボートに乗りこみ、軍艦へしがみつき、海へおち、命からがら台湾という未知の島へたどりつく。つかのまの雨宿りのつもりが、大陸へ帰る目途はいっこうに立たず、どこへもたどりつけないまま長い年月がすぎる。

彼らにかぎらず、台湾人のアイデンティティはつねにあいまいだ。中国や日本に支配されたという意味でも、多民族という意味でも。だいいちいまだ国とすら認められていない。

台湾の近現代史をおさらいすると、まず1624年にオランダ東インド会社が台南を拠点に占領を開始したのだった。1661年、漢人の鄭成功が東インド会社を打倒し統治者となるものの、鄭氏は三代でついえ、1683年以降は長く清朝の統治となった。やがて広東や福建からの移民が増加し、1880年代に台北府、台北城が設置され、台湾の中心は台南から台北へうつる。日清戦争後は日本統治となる。日本敗戦後、共産党軍に敗れた蒋介石率いる国民党軍と民衆が台湾へ移住し、現在の台湾(中華民国)となった。そして戒厳令が1987年に解かれてからは、民主主義国家の道を歩んでいる。

ところで去年のGWは沖縄を旅行したのだが、日本統治時代の台湾の資料など読むと、沖縄と似ているなと感じる。当時の台湾人は日常的に、中国人からは日本人だと侮蔑され、日本人からは中国人だと侮蔑されていた。私は沖縄県立博物館や平和祈念公園の展示において、米軍への憤りとおなじくらい、日本軍への憤りが表現されていたのをおもいだした。

台北で泊まったエアビーそばの「台北橋頭魯肉飯」という屋台

私の体感した目の前の風景の脈動のようなもの、静かなようでいてあっというまに過ぎ去り、入れ替わってしまうようすは、エドワード・ヤンや侯孝賢の映画というより、呉明益の小説の印象に似ていた。

 トムとマークは晩ごはんのあと屋上に忍び込み、屋上のへりに腰掛けるのが好きだった。足元を見れば、中華路を途切れることなく行き交う車やバイクが、それぞれの色で光の線を描いていく。
「光の川みたいだ」
「うん。光の川みたいだ」

呉明益『歩道橋の魔術師』、「九十九階」、天野健太郎訳、河出文庫、2021年、37頁

台北にくらす小学生のマークは、魔術師のアドバイスにしたがうことで、三か月間だれにも見つからず生活することに成功した。

「透明人間じゃない。うまく説明できないよ。まるで映画だった。自分が映画のなかに入り込んでいるみたいだった。母さんといっしょに歩いたよ。泣きながら歩く母さんをずっと見ていた。ずっといっしょに歩いて、これ以上歩いたら、もう自分が死んでしまうんじゃないかと思った」

「九十九階」、52頁

この連作短編集はジャンルとしてはケリー・リンクなどに近い、子どもが主人公の幻想文学であり、とくに死の匂いにみちた物語となっている。私はもともと幻想文学を好んで読んでいるが、今回の台湾旅行をとおし、幻想文学の存在根拠とでもいうべきものを体感した。つまりファンタジーやマジックリアリズムというものが、たんなる童話、伝承のオマージュや、ふつうの理知的な叙述へのアンチテーゼとして考案されたアイデアではなく、台湾の歴史的なあいまいさのなかで生まれるべくして生まれた、ごく現実的な世界認識のフレームワークと言いえてしまうということだ。

きっと『ペドロ・パラモ』に描かれる死者と生者の声の混濁した街も、そのように生まれたのだろう。だが私はメキシコを歩いたことがないから、肌身で実感はできない。カフカのファンタジーの場合は、たぶんそうやって生まれたのではないだろう。

こうした幻想文学の出自の発見は、今回の台湾旅行の収穫ではあるのだが、どこか一般化されすぎているという気もしてしまう。この目で見た肝心のものを、まだ取り逃がしているという感覚がある。私は台湾で、なにを得たのだろう。台湾とどういう関係をもったのだろう。どうして街にはおもったより人が少なかったのだろう。どうして魯肉飯も米粉も三十元なのだろう。エアビーの部屋は見るからに危険なふんいきにみちていたのに、なにも起こらなかったのはどうしてだろう。なぜ私は日本人として台湾をおとずれたのだろう。我要加値とコンビニ店員へ言えばチャージされるのに、カードそのものに言ってもチャージされないのはなぜだろう。死ぬまでに台湾を何度おとずれるか、どうしていまわからないのだろう。この街の風景と私の人生はまるで独立しあっているかのようだが、どうしてふたつの存在が独立しあうなんてことができるのだろう。台湾について考えるふりをして私が考えられることと、ほかのものについて考えるふりをして考えられることは、せめてなにかちがっていてはくれまいか。台湾は台湾、私は私、そうつぶやいたとたん言葉が私のもとへもどってくるのには、どう抵抗すればよいか。

以上、台湾紀行。まだ帰国できていないようなこの感情で。

台北、華江整宅社区

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