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note開設にあたり

私は2022年2月にTwitterで、「力について」というタイトルで連載をはじめた。批評を書きたくて、批評を書くための訓練として、「力について」をはじめたのだった。2021年末にフリーターをやめ就職しているが、時期としてはそれとかさなってもいる。

2年がたった。

そのかんに私生活としては、2022年5月に3年ぶりの帰省(就職して親と和解したため)、同年7月に脳挫傷での入院(以来酒は飲めなくなった)などがあった。2024年1月には、はじめてまとまった量の批評を書きあげた。それはロラン・バルトについての批評で、noteにも掲載しようとおもう。小説も中編を4つほど書いているが、新人賞は受賞できなかった。

そしてもうTwitterの連載はやめ、noteへ移行することにした。だんだん書くものが長くなり、Twitterの形式にあわなくなってきたからだ。それはつまり、批評を書けるようになったということでもある。しっかり書ける人間にとって、短文の断片的な投稿というのは、どうしても気晴らしのような位置づけになってしまう。

バルト論を書いたのが自信になった。自分はもう批評が書けるし、もっと書くべきだろう、と。さいきんは折にふれて、知人へ自然に長文LINEを送るまでになってしまった。ふつうにあそんでいるときも、私の口はそういったことを語りだす。

そもそも自分が日々どういったものを書いているかというと、こんな感じ。

・日記:何時になにをしたかや、食べたかや、どこに行ったというような、感想などはふくまない情報の記録(すぐに書きおえられなくてはならない)
・Twitter「力について」:断片的な批評や創作の投稿
・「当世非書生気質」:ときどき書く自己分析の文章
・原稿:おもに小説

先日、目黒雅叙園で両家顔あわせをおこなった。ちかぢか入籍予定で、結婚式も決まっている。結婚式までに作家としてプロデビューできないことが確定していて、心底絶望している。

そういえばほんとうのはじめての両家顔あわせは、私が脳挫傷でたおれ意識をうしなっている最中に、病院でおこなわれたのだった。地獄の両家顔あわせだったらしい。

それからせっかくなので、「力について」連載で結局言及できなかった「力」について、いまわかることをまとめておこうとおもう。

それは力場のようなものではなく、特定の物体にはたらくひとつの力のようなものだ。大学で連続体力学の研究、要は古典力学の研究にとりくんでいたが、そのF=maのようなもの。

『ユークリッド原論』ではまず、「点とは部分をもたないものである」と定義される。最初に「点」があるのだ。

ところが分析哲学の発展で、あまねく言葉の意味や論理が不確定であることは当たり前になった。ZF公理でもなんでも、ほんとうに最初から確からしい語や概念は存在しない。

とはいえじっさい、公共性だけではまかりとおらない、確からしい「力」というのを私は感じている。それはかならずしも「歴史」に回収されるものではない。人間は「点」を認識する生き物なのだ。

カントふうに一般化していえば、それは空間や時間のはじまりとしての「私」や「今」という問いかもしれない。「否定語」の存在。「神」のトートロジー。あるいはたんに「思想」。

私はこの「力」について、もっと具体的なレベルで考えたい。だから文学をやっている。というよりほかに、やるに値する活動というのは人生にあんまり存在しない。私が毎日書いたり読んだりして考えを進めていかないと、世界中の惨禍はいつまでもくりかえすのだとおもっている。


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