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私は気分屋だ。気分屋なもんだから、noteの記事は気が乗った時しか書かない。日々嬉しいことや悲しいこと、いろんな事が起きるのだけれど、noteを書こうと思ったその時に、すぐさまパソコンを開ける状況はなかなかに少ない。

ということで、今日はどうしても書き留めておきたい事があり、そしてすぐさまパソコンを開ける状況にあったもんだから、筆をとっている次第だ。


きまぐれな呟き。


今日は、私が “リハビリテーション” という医療の道に進んだ、ちょっぴり悲しい原体験について、少しだけお話させていただこうと思う。


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大好きなお姉さん

私の大好きな7つ上の従姉妹のお姉さんは、25歳の若さでこの世を去った。


同じ街に住むそのお姉さんとは、まるで兄弟の様な関係で幼い頃から育ってきた。同じ小学校に通い、同じ中学校に通い、彼女が就職したての頃は毎朝同じ電車に乗って、私は高校に、そして彼女は職場に通った。


彼女は難病にかかった。当時まだ二十歳の若さで。

病名は詳しく聞かされていたかったため今でも分からないが、腸などの消化器官に次々と腫瘍ができていく病気であったと記憶している。


入退院を繰り返す日々。

大学病院に入院している時、私はお花などを持っては彼女の病室に1人で通った。時には修学旅行のお土産や写真を持って。外大出身の彼女は海外への留学経験も豊富で、海外での楽しいお話をたくさん聞かせてくれた。


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真っ赤なルージュ

そんな彼女と会うのが “最期” になったのは、彼女の姉である従姉妹のお姉さんの結婚式の親族顔合わせだった。

彼女は入院中の大学病院を抜け出し、鼻に酸素を付けている状態ではあったが、なんとか車椅子に乗り顔合わせ数十分のみ参列できた。
痩せ細った首元には、キラキラのストール。そして、私と同じくまん丸だったはずの顔はげっそりと痩せてはいたが、その唇には真っ赤な紅が指してあった。


その時、彼女の隣には病院のスタッフがいた。

あの人はだあれ?

ーーあの人は、リハビリを担当してくれている作業療法士の先生だよ。


私がリハビリの世界に飛び込んだ、人生を変えた瞬間だった。


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寄り添っていたかった


その後、お姉さんは亡くなった。


大好きなお姉さんの葬儀。

涙で目の前が霞む中、私は作業療法士の先生の姿を見つけた。


その先生は、お姉さんが最期までリハビリで頑張って作っていたという折り紙の作品を沢山持ってきてくれ、それらは全て棺の中に入れられた。



私は悔しかった。



大好きなお姉さんが弱ってしんどくなった時、私は病院へ近づくことも出来なかった。

でも、本当はすごく会いたかったし、最期の最期まで寄り添っていたかった。


その原体験が、今、私が目の前の患者さんに全力で向き合い、寄り添う理由かもしれない。


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私の大好きな歌の歌詞の一節に、こんなものがある。


僕のした単純作業が この世界を回り回って 
まだ出会ったこともない人の 笑い声を作ってゆく
そんな些細な生きがいが 日常に彩りを加える
                   (Mr.Children「彩り」より)



私は一体、この世を去るまでに何人の人の日常に “彩” を加えられるだろうか。



彩ちゃんの生きたかった今日、この一瞬を、私は今、全力で生きている。




かわむー


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