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1991

 夏休みがはじまって一週間ほどたった七月の夕方だった。
 その日の出来事は、一九九一年のどこかに浮かんでいるようだと、敬は思い返す。そのあやふやさは、どのような時間と空間に存在したのか、という類のものではなく、本当に存在したのか、そうではないのか、その実在を疑わせるほど敬の中では脆いものだった。そこに出てくる人々とは今はもう会えないし、声を聴くこともできない。だが、ふとした瞬間、かすかな風で羽毛が浮かび上がるように、あの人たちが現れ、撫でるようにあの日の出来事を語り始めるのだ。

 五歳の敬と恵子は憂鬱な表情で家路についていた。
 近頃は、何も楽しいと思える事などなかった。敬は不機嫌な両親とは仲が悪かったし、恵子は口うるさい母親に常にうんざりさせられていた。眠るように息を潜めている学校も楽しめなかった。学校は秋になり目を覚ますと、不機嫌な表情を敬に向けるだろう。そんな憂鬱な未来を振り払うように空を見上げると、そこは鮮やかなオレンジ色が空の隅々まで行き渡り、輝いていた。敬は彼の周囲にある重力を忘れ、息を飲んだ。敬が今いるのは、大きな空に飲み込まれそうな海岸沿いの小さな町だった。この町に退屈を紛らわすものは何も無かった。今までもそうだし、これからもそうだと信じていた。唯一、恵子の存在だけが敬の小さな救いだった。雨雲のように憂鬱な気分の間に浮かべる彼女の、どこか乾いた笑顔を感じると、敬は妙に心が温かくなり、落ち着くことができた。だがそんな安息を感じる事が出来るのは、この夏までだった。秋が来れば、恵子は彼女の父親のもとに行ってしまう。敬の前では控えているが、恵子はそれを喜んでいる。そう考えると、敬には彼女の憂鬱な表情が白々しく思えてくる。
 
 突然、恵子が空を指をさす。敬は恵子の指先を見たあと目を細めた。
 信じられなかった。雲間から人が落ちてくるのが見えた。
「人が落ちてくる」
 茫然と恵子が呟く。天から落ちてくる人は、オレンジ色の空に溶けてしまいそうなほど小さく、そして淡かった。
「行ってみようよ」
 敬が走り出すと、ためらいがちに恵子が後を追う。落ちる人は敬の視界のなかでほんの少しづつ大きくなる。敬は自身の鼓動が高まるのを感じた。きっと、落下する先は海岸だった。そこに向かう途中、二人は行きかう人々の顔を眺めた。人々は不思議なほど無表情で空っぽに見えた。生きている人間は、空から落ちてきているあの人だけだと思えるほどに、地上の人々は虚無的で寒々しかった。
「人が落ちているんだ」
 と敬が言う。人々は何も答えない。
 敬の言葉通り、人はゆっくりと天から地上に落ちている。落ちている人はオレンジ色に輝く傘のようなものをさしている。
 
 敬たちは海岸に着いた。砂浜に赤くて小さな円が書かれていた。何人かの大人が円から離れたところに立ち、呆けたように空を見上げていた。敬も空を見上げた。人がゆっくりと降りてくる。そして、かすかな風切り音とともに円の中に降りる。陽光を全身に絡めながら、降りてきた人はゆっくりと砂浜に崩れた。瞬間、大人たちが歓声を上げる。降りてきた人はオレンジ色に光る布を身体に巻き付け、何か叫んでる。歓喜の叫びだ。大人たちも、歓喜しながら、落ちてきた人を囲む。円を中心に、熱狂の輪が出来た。子供たちはそこには加われず、ただ茫然と醒めた目でその騒ぎを眺めた。
「アキュレシーランディングだ」
 一人の大人が、敬たちに声をかける。
「パラシュートの操縦精度を競う競技なんだ」
 敬は首を傾げる。大人は苦笑し、再び歓喜の輪に戻る。
 敬は大人たちの言っている事も、なぜ、大人たちが感情を昂らせているのか分からず、その輪を眺めていた。しかし、大人たちの昂りを見ていると、心の奥底に、ひっそりと何か温かいものが染み出てくる。それは恵子と同じ空間にいるときに感じる温度に似て、しみじみと敬を心地良い気分にさせる。
「この子たちは?」
 と降りてきた人が言った。
「さあな町の子じゃないか?」
 降りてきた人は、ゆっくりと立ち上がると、敬と恵子を強く抱きしめる。ふたりとも息ができなかった。そして彼の全身に纏わりついた陽のにおいを嗅いだ。
「信じられるかい? 三センチの円。そこに踵でタッチしたんだ」
 降りてきた人が、円を指さす。敬はそこを見た。確かに、円の中央にはさらに小さい円があった。
 空を飛ぶ。想像ができなかった。
 空から僕らは、どう見えるんだろう? と敬は子供らしい疑問を抱いた。蟻のようだろうか。それとも、そもそも見えないのだろうか。
「今日は何だか、出来るんじゃないかと思った」
 降りてきた人は、大切なお守りのように自分の踵を指さす。そして、幸運のシンボルのように二人を優しく抱きしめる。
「この子たちは天使かな」
 大人たちの誰かが、笑いながら言った。敬と恵子は自分たちが普通の人間であることを確認するかのように、顔を見合わせる。
 大人たちの間から、女の人が出てきた。そして、降りてきた人に強く抱き付いた。
「俺も驚いたよ」
 大人の一人が敬の耳元で囁く。
「あいつ、出来るまで渡さないって言うからさ」
 その大人は片目を瞑る。
 降りてきた人は女の人に指輪を渡す。大人たちから歓声が上がる。その中の一人が、哀し気な表情をしていたのを敬は盗み見た。
 そこから、パーティーが始まった。敬と恵子も自然とそこに参加した。
「あの男の人が好きだったの?」
 敬と恵子は一人だけ違う表情をしていた大人に近づき、そう言った。
「違うわ。女の人の方よ」とその大人は答えた。
 敬と恵子はその意味が分からなかった。
 パーティーの間、大人たちは海岸を走り回って、何かを叫んでいた。女の人と降りてきた人は、ずっと一緒のところにいて、話をしていた。敬たちが近づくと、女の人と降りてきた人は、大切なもののに触れるように、敬たちの頭を撫でた。夢のような時間だった。この人たちは僕らと同じ人間なのだろうかと、敬は不思議に思った。

 次の日から敬も恵子もその人たちを見なかった。
 残りの夏休み。退屈な日は、敬と恵子は海岸に行き、小さな円を描く。波や風で消えないように、鉄パイプや木片でしっかりと円を形作った。
 夕方になるまで、二人はいつまでも、それを眺めていた。
 だが、二度とそこには誰も降りてこなかった。

 秋になり、恵子は消えた。だが、海岸にある小さな円はいつまでも残り続けた。

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