湾岸曲芸団①

 網膜に残る残像ではなかった。黒くてぼんやりとしている影は空に浮いているのか海に浮いているのかわからない。それは水平線の上に見える貨物船だった。相司はいつも水平線を見ていたが海で泳いだ事は一度もない。浅瀬が存在せず突然深くなるため、埋立地の海は遊泳禁止だ。
 
 一九九五年の夏。東京湾に面した埋立地での生活は十歳の相司にとって退屈極まるものだった。この土地には高層建築と空地、そして人工的に造られた海岸しかない。ここは新しい首都になるはずだったがバブルの崩壊によりそうならなかった。高層ビル建設予定地はそのまま放置され、学校の校庭よりも広い空地となった。空地はフェンスで囲われ土がむき出しになっており、雨が降れば泥の沼となり雨が止めば青空を写す巨大な水たまりが現れた。大人にとっては何の役にも立たない空地だが、子供たちには少しの痛みと退屈を紛らわしてくれる場所だった。泥にまみれるのは暇つぶしにはなった。埋立に使われた土は子供達と同様に他の土地から運ばれてきた。
 相司の遊び相手は二歳年上の兄、相太だけだった。相司たちは十八階建ての高層マンションの一室で暮らしていた。相司の家族は東京から越してきたが、父は家を出て東京で暮らしている。相司の親は母だけだった。
 父がいなくなってからの母はまるで抜け殻だと相太は言った。何が抜けたのか相司にはわからないが、真夜中トイレに行くとき、キッチンでひとり酒を飲んでいる母の姿は何度か見かけた。相司の父は建築設計の仕事をしていて、この街の都市計画にも関わっていたという。少々厳しい意見だと自分でも思ったが、父は家庭も仕事も全て放り出したのだと相司は考えた。相太には父の記憶が残っているようだが、父の話は一切しなかった。相司は電話で父の声を聞いたことがある。母が不在の時、父から電話がかかってきた。
「母さんは?」と聞かれたので、父とは知らず、
「誰ですか」と相司は言った。
「お前の父だ」と父は言った。
 何の感情も湧かなかったので、事務的に母の不在を伝えた。
「そうか」と父は答え、電話を切った。
 父からの連絡を相司は母にも兄にも伝えなかった。
 母は父から養育費は貰っていたが将来が不安だと言って、とあるオフィスビル一階のコーヒーショップで働いていた。相司は一度だけ働く母を見た事がある。兄にも内緒で母の姿を見に行ったのだ。ビルの一階は出入りが自由だった。ガラスとコンクリートで舗装された空間は広くて誰もおらず、昇りのエスカレーターだけが音も無く動いていた。片隅にあるコーヒーショップは柔らかい暖色の壁や床で構成されていて、仕切りが無かった。店内は茶色いソファの前に木材で出来たテーブルが複数並んでいて、スピーカーからはボサノバが流れていた。店は無機質な空間の中で明らかに場違いな雰囲気を放っていた。蛍光灯に眩しく照らされたカウンターの中に母は無表情で立っていた。夜中のキッチンで見かけた時と同様に、声をかける事はできず相司は黙って立ち去った。

 相司たちの通う小学校は広い校庭を持つ海に面した学校だった。
 一年ほど前に大きな地震が起きたとき、校庭は液状化現象で泥々になったことがある。なぜ土から水が出てくるのか相司には理解できなかった。教師に質問したところ埋立地の土には水分が含まれていて、地震で揺すられると内部の水分が表に出て全てを泥々にしてしまうという事だった。埋立地に多い現象だという。教師はついでに埋立地の海でなぜ泳げないかも教えてくれた。相司の中で何かが萌芽した。知識を得るという事に興味を持ち、相司はその教師を質問攻めにした。
「相司君は子供らしく、ありのままでいいのよ」
 ある日、教師はこう言った。相司はこの母親と同じ年齢の女教師が自分の行く末を危惧しているのだと理解した。誰とも遊ばず知識欲だけ旺盛。教師は歪んだ人格が形成されつつあると解釈したようだ。質問が小学生らしいテーマ、地球はなぜ回るのか、なぜ海はしょっぱいのか、ぐらいならまだよい。人間はなぜ生きるのか、死ぬのか、という哲学的なテーマにまで及びかけるに至って、教師は子供として地に足をつけるよう促した。相司にはありのままとはどういう事なのかわからなかった。子供の前ですら無力感、虚無感を隠さない母親もある意味ありのままに生きている。それが良いことなのだろうか。 
 相司は母親も質問攻めにした。母親は教師と違い対話も軌道修正の試みもしなかった。質問攻めに対し辞書を渡す事で凌いだ。十歳には少し難しかったが、母がくれた数少ないプレゼントであったので大切に扱った。辞書は相司にとっては新鮮な書物だった。端から読むのではなく、ページを開き知りたい言葉と知識を引き出すのだ。相司は辞書を適当に開き、言葉を片っ端から頭に入れていった。歩きながら読んだ方が内容が容易に頭に入ったので辞書を読みながら歩くこともあった。頭が疲れたら足を止め、辞書から目を離してまっさらな水平線を眺めた。歩いては止まるその姿はよく目立ち、からかいやすいためか、相司は同じ年頃の自転車に乗った子供たちに取り囲まれる事もあった。
 相司は自転車が好きではなかった。
 いくら練習しても乗りこなせなかった。そんなんじゃ将来困るぞ、と言って、相太が人工海岸まで連れていき自転車の練習に付き合ってくれるのだが、何度砂まみれになっても乗りこなせなかった。
 ある日曜日、相司が辞書を読みながら道を歩いていると自転車の集団に取り囲まれた。集団は五人ほどいた。彼らの脚、そして自転車のタイヤは茶色い泥にまみれていた。そういえば今は雨上がりだった、と思い、相司は水平線に目をやり東京湾と横浜の間に虹が出ているかどうか確認した。横浜にある巨大観覧車がぽつんと小さく見え、分厚い雨雲がその上を覆っていたが、虹は出ていなかった。虹を見ると気が紛れるので相司としては少し残念だった。彼らは泥の沼と化した空地にタイヤの跡を刻んでいたらしい。それに飽きて顔を上げた時、相司の姿が目に入ったのだろう。
 また本読みながら歩いてるぞ、と自転車に乗った集団の誰かが言って笑った。笑いは伝播し他の連中も笑った。本当に可笑しかったのか周囲に合わせただけなのか相司にはわからなかった。これは辞書だよ、と言って、そいつの顔に投げつけてやりたかった。辞書は両手でやっと持てる重さだ。ハードカバーで硬いし、その光景はさぞかし見ものだろうと思ったが、大事な辞書を失ってしまう可能性が高い。 
 相司はひたすら、彼らの嘲笑を浴び続けなければならなかった。相司はただ不思議だった。彼らは何が楽しいのだろうか、と思った。水平線を眺めていると、声が止み彼らは何処かへと消えてしまった。振り返ると自転車に乗った相太がいた。
「またあいつらか」
 二歳年上とはいえ相太一人である。喧嘩ともなれば、彼らに分があっただろう。それでも彼らを震え上がらせ、退散させる迫力が相太には備わっていた。
「本なんか読みながら歩くな」
「ただの本じゃない。辞書だよ」
 相司は大切そうに辞書を抱きかかえる。
「何だっていい。もう昼だぞ」
 相太の自転車の後輪には、細長いステップがついている。相司は辞書を籠に入れ、ステップの上に立ち、相太の肩につかまった。自転車が動き始めると、心地よい潮風が顔に吹きつける。汚染された海の化学薬品っぽい匂いも混じっていた。兄に色々なところに連れて行ってもらう時は二人乗りで移動した。もちろん移動といっても埋立地の中と限られていた。学校、湾岸線の駅、空地とオフィス街、人工海岸、どこにでも連れて行ってくれた。平坦な埋立地には自転車が役に立つと相司が実感するたび、その心を見透かしたように、早く一人で乗れるようになれ、と相太に笑顔を向けられた。
 マンションに帰る途中いくつかの空地を通り過ぎたが、その中に何かを建設しているところがあった。ビルの再建設が始まった訳ではない。骨組みはせいぜい二階建ての高さしかない。あれは何なのか、と相司が聞くと、兄は、
「サーカスが来るんだよ」
 と答えた。
 
 二週間後にサーカスのテントは完成して、サーカス団が来た。ロシアの有名なサーカス団らしい。相司は興奮した。彼にとってはこの土地に起こった一番の大きな変化だった。あれはずっとここにいる訳じゃない、と兄に言われて一時的にがっかりしたが、高揚感は萎えなかった。母親もきっと喜ぶと思った。サーカス団が退屈な日常を変え、自分と母親との関係まで変えてくれるような気がしたのだ。母親はサーカスなどに興味はなかったが相太が説得してくれた。
「相司は本を読みながら歩いている」
 と夕食時に相太が母に言った。辞書だよ、と相司は心の中で訂正した。
「器用な子ね」
 興味がないらしく、母は頬杖をついたまま、フォークでほうれん草を弄っている。辞書を自分が与えた事すら忘れているのだろう、と相司は思った。キッチンのライトは点いていたが、三人がいるダイニングはテーブルを照らす円錐形のライトのみ点いていて、まるで夜中のプラットホームのようだった。
「本なんか読みながら歩いていたら、危ないだろ」
 歩道にはあまり人が歩いていないし、さすがに横断歩道では止まる。そもそも埋立地の道路には、車などほとんど走っていない。なので相司には特に危ない行為とは思えなかった。
「そう思ったら、注意しなさい」
「したよ。したけど聞かないんだ」
 相司はフォークで小さく刻まれたベーコンを突きながら、二人の様子を伺っている。
「サーカスに行けば、もうしないと約束するって」
 そんな事を約束した覚えはないが相司は話を合わせた。いまは辞書よりサーカスだった。
「うん、約束した。だからいいでしょ?」
 相司は感情が昂ぶり、相太を驚かせるほどの声量になった。母は指でこめかみを抑えている。
「母さん。いま頭が痛いの。大きな声出さないで」
「いいでしょ?」
 さらに畳みかけると、母親は感情を爆発させた。
「うるさい」
 ダイニングは水を打ったように静かになった。相太は母親と相司の顔を交互に見ている。
「大声出さないでって言ったでしょ」
 自分の声も頭に響くらしく抑えた声で母は呻いた。頬杖に使っていた手は今は頭を抱えるために使われている。口を半開きにしたまま相司は母親を見ている。相司はどうして母親からこんな扱いを受けなければならないのかわからなかった。情けなくなって先程とは別の方向に感情が昂ぶり、涙が眼に溜まった。相太はじっと相司を眺めている。
「わかったから」
 母親は顔を上げず、相太の提案を了承した。

 約束の日。母親は夕方になると偏頭痛がするから行かない、と言い出した。
「気圧のせいね。頭が痛くなる気圧ってあるのよ」
 母親はそう言って、窓の外のやや薄い雨雲を睨んだ。灰色の雨雲の間からは薄青色の空がのぞいている。
 相司は唖然として母親に抗議した。怒りのあまり辞書を壁に投げつけた。約束を取り付けた日のような哀しみは無かった。ただただ怒りがあった。相太は何も言わずに相司の感情の昂ぶりを眺めていた。大人しい相司の爆発に母親も少し驚いたらしく相司の目を見たが、すぐに目を閉じた。
「行くなとは言ってないから」
 母親は目を閉じた状態で深くソファに身を沈めていた。相司は絶望した。いくら怒ったところで無駄だ。母がこの状態になると一切動かなくなると知っていたからだ。
「あんたら二人で行きなさい」
 母親はそれだけ言うと、二人から顔を背け、死んだように動かなくなった。
「そうする」
 相司は感情を込めずに言った。吐き出す感情は何も残っていなかった。もう母の事などどうでも良かった。サーカスを楽しむ事だけに集中しようと思った。相司と相太は自転車に二人乗りしてサーカスを見に行った。サーカスのテントは空地がほぼすっぽりと収まってしまうほどの大きさだった。テントは白と赤の飴の包み紙を思わせた。サーカスが始まる頃、相司はすっかり心を閉ざしていた。こんなはずでは無かった。身勝手な母親の事など忘れて楽しもうと思っていた。相司の心に楽しさは微塵もなく寂しさが占領していた。暗がりを行きかうライト。奇妙な衣装を着た人々が作り出す独特の雰囲気。ここは別世界だった。だが相司はその世界に入り込めなかった。母親がここにいれば、普段話せないことも色々と話せただろう、と思った。
 綱渡りも玉乗りにも全く興味を示さない相司に対して、相太は心配そうに声をかけた。
「楽しくないのか?」
 相司は何も答えられず黙った。泣き出しそうだが堪えた。兄を心配させたくなかった。この場所で少しも楽しめない。そしてその事を兄に伝えることも出来ない。まだ普段の退屈や嘲笑を浴びせられている状況の方がましだった。
 しばらくすると自転車が出てきた。
 自転車はライトを浴びた舞台をくるくると回り始める。服も自転車も黒塗りで、まるで切り絵が動いているようだった。乗り手の表情が見えないので少し気味が悪かった。
「自転車だ」と相司が呟く。
「そうだな」と相太が答えた。
 自転車が一周するたびに、暗がりから全身に黒い鳥の羽を付けた人が出てきて、飛び乗る。人が乗るたびに、相司は心が少しづつ動くのが分かった。二十人は乗った。自転車の上に人間がピラミッド状になって、ゆっくりと舞台を回った。
「気に入ったか?」
 相司の目が輝いた事に気づき相太が訪ねたが、相司は何も答えなかった。
 彼らはどれくらい練習したのだろう。自分は自転車を普通に運転する事すら出来ない。運転する方も乗る方も平然としている。相司はその時あらゆる事を忘れる事が出来た。
 
 サーカスが終わると二人はそのまま人工海岸へと向かった。相司が相太に頼んだ。まっすぐ家には帰りたくなかった。サーカスの曲芸団を見たことによる興奮は簡単に収まりそうになかった。風景がいつもと違って見えた。無機質な高層建築、その足元にある空地、空っぽの道路。それらが息づいて見えた。
「曲芸団だ」
 人工海岸に着くと兄は愉快そうに言って、相司を荷台に乗せたまま少し前輪を浮かせた。兄は砂浜を何度も往復する。
 相司がサーカスの曲芸団を気に入り、兄も安心しているようだった。
 前輪が着地するたびに砂が舞った。
 もう陽が沈みかけていた。
 西日であらゆるものが橙色に輝いている。自転車の影が砂浜に細長く伸びた。
 兄の運転でも興奮を味わう事が出来たが、相司はもっと大きな興奮を味わいたかった。
 橙色に輝く水平線を見ていると曲芸団がやった事を自分でも出来る気がした。
「曲芸団だ」
 相司は静かに呟いた。相太は相司の真意がわからず、そうだな、とだけ答えた。
 荷台に足を乗せた相司は兄の肩から手を放し曲芸団のようにその場で立ち上がろうとした。
「おい、何やってんだ?」
 相太は驚いた。相司は立ち上がることが出来た。だが曲芸団でいられたのは三秒ほどだった。
 不規則な砂に車輪がとられ車体が跳ね上がると、相司は後方にひっくりかえり砂浜に倒れた。
 三秒だけでも十分だった。解放感を存分に味わえた。相司は倒れたまま空を見上げていた。橙色に染まった雲が浮かんでいた。
 兄は弟の落下に気づいて急いで戻ってきた。
 相司は笑っていた。相太は訳がわからなかったが、つられて笑った。 

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