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ままならないから私とあなた

これまでにない変化が起ころうとしている。
昨今の人工知能ブームが、「第三次産業革命」の到来を意味するともいわれている。いまある仕事のほとんどが機械に取って換えられ、あらゆるものの自動化が起こる。
そういう変化に、機械はあくまで機械、人間に取って換えることなどできないと、反発する人たちもでてくるだろう。或いは反発こそせずとも、その人間らしさを活かした「クリエイティブな仕事」は残るだろうという主張もある。

無機的なものと有機的なもの、そこには明確な違いがあって、「自分らしさ」、ひいては個の中にあるアイデンティは誰にも脅かされることのない「聖域」だと思っている。

だけど、本当に人間と機械を隔てる絶対的な壁なんてものが、存在するのだろうか。

例えば「スタイル変換」という技術は、この人間らしさまでもを脅かす技術となりうると思う。

これは、元となる画像からその「絵らしさ」を学習して、ほかの画像に適用させる技術だ。ゴッホの星月夜っ"ぽい"写真だったり、ムンクの叫びっ"ぽい"写真をあっという間に作れてしまう。
或いは有機的なものが数式によって解明されている例として、反応拡散系と呼ばれるものがある。

キリンの背中の模様だとか、魚の斑点のパターンだったりといったものが、漸化式によって機械が完全に再現することができる。生物の真似に留まらず、理論系として完全に有機的なものが解明されることによって、機械と生物、その二者を隔てる壁がなくなる日もくるのではないだろうか。

もしもそうなったとき僕達は、なにをもって自分が自分であると認識できるんだろう。


浅井リョウさんの「ままならないから私とあなた」という作品は、生まれてから今に至るまでずっと大事にしてきた「自分らしさ」までもが機械に奪われるとは、そしてそのとき僕達はどうするのかを考えさせられる一冊だった。

好きなアーティストという共通点で繋がった薫と雪子。
だけど、二人の価値観は少し違っていた。
「メンバーの光流ちゃんみたいなピアノが弾けるようになりたい」とおもう雪子、曲やメンバーよりもパフォーマンスの「しくみ」に興味がある薫。
雪子がその夢を薫に伝えると、「私が叶えてあげる!」と薫は言った。
しばらくして音楽科のある高校へと進学した雪子のもとに、薫からの連絡があった。薫はある発明でコンテストでグランプリをとり、注目を集めていたのだ。その発明とは、「おうちでピアニスト」。
彼女はピアノ演奏者独特のテンポや強弱といった特徴を学習し、適用させることのできるソフトを開発したのだった。薫は文字通り、「光流ちゃんみたいな」演奏をできるようにしたのだ。
徐々に違いを意識するようになる二人。そして、決定的な違いに気づく日が訪れる。

ーー

変化に対して保守的な人って、結構いる。

中学校のとき、国語の先生が、「電子辞書なんかより紙の辞書のほうがいい」という話をしていた。
「紙の辞書は、ペラペラとめくっているうちに他の語句にも目がいって、知らず知らずのうちに語彙が増すから」、らしい。

何かを探しているときにふと見つかる思いがけない発見のことを、「セレンディピティ」という(と、何かで読んだ)。要するに電子辞書は、探しているものはすぐに見つかる反面、セレンディピティの入り込む隙を与えないと、そういうことを言っている。

たしかに一理あるなと思う一方で、僕は、これと同じ次元で反論することができるとも思う。
電子辞書で知りたいことがすぐ分かれば、そのぶん探す時間が短くなる。その短くなった時間を、なにか他のことに使えるのだから、その時間にだって思いがけない発見があるかもしれないじゃないか、と。

でも、僕はむしろ、こんな議論自体意味がないと思ってる。
辞書そのものはそれ以上の意味をもってなくて、「調べたいものを探す」という機能以上のものに意味付けをすること自体ナンセンスだからだ。
きっとその先生は、繰っているうちに思いがけず目にした言葉が、その先の人生で役立った経験があって、そう意味付けしていたんだと思う。
じゃあもし「役立つ経験」が一度もなかったら?
思いがけずに目にした言葉は、それ以上の意味をもたないどころか、何かを探すという意味においてはいたずらに時間を奪われただけだ。

僕達は、見えない先をみようとして、過去の経験を頼りに自分の軸を”捻出する”。今に至るまでの人生は、その軸に沿ってあたかも約束されていたかのようにここまできたのだと、そう思い込んで生きている。
だからこれから先に起こる出来事や、自分の経験したことのないものにだって、あらかじめ意味が与えられているものだと思いこんでいる。

だけど本当は、はじめから意味は存在しないんだ。
「なにか」が起こってはじめて、そこに意味が生まれる。

僕達がするべきことは、抗うことのできない変化に抗い続けたり、恨んで絶望したりすることじゃない。変化自体にそれ以上の意味はなくて、未来までもを意味付けるわけじゃない。
世界が変わったのなら、そのなかに自分を適合させていくだけだ。そのうちにいいも悪いも好き勝手に意味付けされていく。


たとえ今あるものがすべて奪われようと、このさきどんなに世界が変わろうと、なんだかんだで都合よく、僕達は生き延びていける。そんな気がする。

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