モブとして生きる幸せ
モブキャラクターとは、漫画、アニメ、映画、コンピュータゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆のこと。(Wikipedia)
多くの人類は群衆である。
常に誰かの人生というストーリー上に名前のある登場人物として存在することはない。たぶん誰もがそう。
だが、と同時に、誰の人生にとっても群衆であるということはほぼ有り得ない。
わたしの人生を歩むというのは、つまりそういうことなのだと思う。
(※至極当たり前のことを、さも大発見かのように語っている)
わたしは誰かの人生のなかでは重要な登場人物であるかもしれないし、
一方で、一人で街中を歩いてるときは、「わたしは○○だ」と表明されることはないただの群衆であるだろう。
わたしは子供の頃から群衆でありたかった。
注目されることなく、それでいて自然と他人のストーリーに溶け込める者でありたい。
なぜそんなことを切実に願うのかというと、注目されるときは良い意味だけではないからだ。
できれば後ろ指を指される存在にはなりたくなかった。
ひとりぼっちで浮いているなという風に、誰かに認識されることもこわかった。
変なやつだとも、面倒なやつだとも、レッテルを貼られたくなかった。
自分が目立つときは良い理由じゃないという意識があって、だから、なるべくモブでありたかった。
普通に扱われることが嬉しい。
人と関わっても何も相手に特別な印象に残すことなく、サッと消えてしまいたかった。
誰かの物語に入りたくなかったわけではなくて、上手な入りかたがわからなかったような気がする。
そんな自分と対極な言葉、「有名になりたい」
より多くの人の人生に、名前のある自分として登場したいということなのだろう。
そういう次元になると、
良い意味じゃなくても、知られていること自体を有り難がり始める。
アンチが沸くのは、より有名になった証拠だと肯定的にとらえる。
なるほど。
一方で、人間らしく傷ついたり憤ったりもする。
でもそれをさらけ出してしまった場合、おそらく、多くの人の意識に登場している自分の像が歪んでしまう。
それが自分の今の環境を脅かす可能性もある。
たくさんの人の人生の中にある自分というキャラクターの扱いを考えねばならない。
有名な人、有名になりたい人のストーリーのクレジットには、どのくらいの人物の名前が登場するのだろう。
100万人に知られてる人は、100万人の名前を覚えてない。
100万のうちのほんの数百とか数千とかの記憶はあるかもしれない。
それでも一部にすぎない。
その限られたキャパシティにアンチを含めるのはもったいないようにもうつる。
結局でもそれはそれぞれが判断するべきことなのだろう。
自分を好きで応援してくれる人をなるべく多く認識していくのか、その人たちの分を削ってでも意識しなきゃいけないアンチがいるのか。
有名になりたいという思考なら、アンチの存在自体を否定するのは難しい。
自分側でフィルターをかけていくしかないのだろうな。
大変な世界だ。わたしには無理だな。。。
逆に、自分が人気アーティストのファンとする。
そのアーティストは自分の名前どころか存在も知らない可能性が高い。
そこでどういう行動を選択するか。
1.認知されるために努力
知られるためにあらゆる手段を尽くす。
問題点:過激化して知られるために迷惑なことも辞さない。逆に、真面目にやってきたけど認知されないから虚しくなりモチベーションがなくなる可能性もある。
2.知られていないから好き勝手
自分の好きなように楽しむ。
問題点:活動を応援するという意識が低い場合がある。また、ときに身勝手な言動がほかのファンやアーティストを傷つけることがある。
3.モブとして生きる
個を主張しない不可算の存在になる。
問題点:ない
本当にないのか?……ない。
なぜならば、問題がない存在になって初めて立派なモブたりうるのだ。
(レトリカルにこじつけてるような…笑)
モブとして生きるとは、社会的な存在としての群衆になるという意味ではない。
モブキャラクターだ。
あなたが好きなアーティストにとって、あなたはファンというモブになる。
そういう存在は、○○のファンという以外のアイデンティティを必要としない。つまり、○○が好きという気持ちだけ、あればいい。
これがポイントである。
わたしはこういう名前の、こういう生い立ちの、こういう性格の、こういう悩みを抱えた人間だということを余さず抱えて、アーティストを応援する必要は必ずしもない。
ファンとオタクの違いとして、
個人的には、ファンは不可算で、オタクは可算であると感じている。
ファンは好きということだけを共通点にもつ集まりだが、
オタクは好きでいて、かつ個である必要があるような気がする。
個のないオタクなんているか?
ここで、第四の選択肢です。
4.知られても知られなくても変わらない境地
好きという気持ちに対して、自分の個性がある。
問題点:もう引き返せない。
知られていないという前提でモブファンとしての振る舞いをすることもあるが、自分の中に好きの世界観がある。
個として認知されていることもある。
英単語でも文脈によって数えられたり、数えられなかったりする名詞があるように、
そういう存在は、有名アーティストを好きになったときの最終形態なのかもしれない。
そういう器用なことがバランスよくできるようになれば、問題点もないとも思うが、実際にオタクは悩んでいる。個の存在なので、自我がある。
このあたりは深入りせずに、とりあえずもう手遅れだと、今はいったん見ないふりをしておこう。
……ああ、オタクが出てきたので話がややこしくなった。
誰かを好きでいることに対して正解などないので、
モブこそ至高と決めつけようとしていたことがナンセンスと言われればナンセンスなのかもしれない。
ただ、わたしは、モブでいれば十分なんじゃないかと思う。
○○のファン。以上。
それ以外にいろんな思いを抱えて行き詰まってしまうくらいなら、好きという気持ちだけを残して、あとはすっきりなくしてしまっても良いのではないか。
悩む覚悟があるなら、最終形態を目指してもいい。
ただ、なにかを好きでいるときに、幸せでいられないのは本末転倒だ。
辛くなったら、モブになろう。
モブはストーリーの枠外の存在ではない。
名前は持たなくても確かに登場はしている。
アーティストが、“応援してくれてるみんな”と認識した集団の中から外れることはない。
そもそも、自分は、自分の人生の主人公なのだから、
誰かの人生に名前をもって登場していなくても自分はなくならない。
自分が悲劇の主人公になるくらいなら、誰かの人生に無理して登場する必要はない。
ただ、人の人生を脅かす登場人物になるくらいなら、しかるべきモブであるべき。
好きでいることで迷うことがあれば、そういう原点に立ち返って、
そこからまた落ち着いて進んでいけばいいのではないでしょうか。
◇◇◇◇◇
………とまあ、わたしは、こういう感じの好きの世界観があるオタクです(これ以上、話を複雑にするのやめようね)
AY
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