引用という名の暴力

 私は小説や映画の物語に触れたとき、その面白さを追究しなければ気が済まないたちだ。趣味でものを書いているからっていうのもあるけれど、たぶん思考停止するのを恐れているから、色々と考えてしまうのだと思う。そして、それを誰かに聞いてほしいときも、もちろんある。

 去年八月に上映された『ドラゴンクエスト ユアストーリー』についての考えがまとまったので(遅い)、ひとつ映画批評を書いてみようかなと、ペンをとった。そのために引用したい言葉があり、ある著者の本をぺらぺらとめくっていたのだが、読めば読むほど、私の持論から遠ざかってゆくような気がして、くらくらした。まあ当然だ……ひとつの作品として独立しているのだから……私の批評のために存在している文章ではないのだから……著作の引用を、どう持ちこめば自然なのだろうと考えて、ふっと気がつく。

 そもそもこのひとの言葉を、私の拙い論理のなかに押しこめてしまっても良いのだろうか。

 暴力的ではないかと恐怖してしまい、書けなくなった。私は私の考えに自信が持てない。
 でも考えてみれば、それもそのはずで、私たちが物語に触れたあとに抱くものは、たいていが思い違いなのだ。それは分かっている。批評はその思い違いを、いかに面白く、その作品にどのような可能性があるか、ということを論じる。素晴らしい批評を読んだあとに世界の見方が変わるのも、その批評家だけが感じとれる思い違いが鮮烈だからだ。私も私の思い違いを誰かに聞いてほしい。だけど、そのために踏み台になってしまう文章や作品が出てきてしまったら、怖いと感じてしまう。

 あとは作品を論じようと思って、既存の論理を引用したけれど、そこから飛躍していかない、というのも恐れるべきことだ。あくまで私の意見(偏見)なのだが、作品を精神分析に結びつけたがるひとに、そういう傾向が多いような気がする。勘違いしないでほしいのは、逆はオッケーということ。精神分析を説くときに、それに見合った作品を引用するのは構わない。その論を確かなものにするから。


 大学の講義っぽくなってしまうけれど、私が常々論じようと思っていて、躊躇してしまっている作品たちがこれだ。というか、私の代わりに誰かに批評して欲しい。

園子温監督作品
『自殺サークル』や『ANTIPORNO』からみる、私たちの主体と客体。
『ジョジョの奇妙な冒険』第四部より、川尻早人はなぜ吉良吉影を打倒できたのか。
またそれに伴う川尻早人の父性獲得について。
『ドラゴンクエスト ユアストーリー』視聴者が感じとる共感と驚異。反証としての『新劇場ヱヴァンゲリヲン』序破Q。
幾原邦彦監督作品からみる現代神話の発見。ノースロップ・フライ『批評の解剖』とともに。
『イナズマイレブンGO ギャラクシー』の物語構造について。ドラマは常にフィールドのなかで起きている。

 いま思いつくだけで、このくらいはある……アニメばっかりだ。少しここで吐き出せたのですっきりしたが、本格的に批評するのは、たぶん随分さきになると思う。もっと勉強してから書きたいので、しばらく作品を論じるときは、感想という言葉を使いたい。

 そしてこれは願望なのだけど、私の書いた小説が誰かに批評されること。私の紡いだ文章のなかに可能性を見つけてくれるひとが現れること。その為にも書いていこうと思う。私も私が気がつかなかった可能性を知りたい。私の文章に対する、誰かの思い違いを読んでみたい。これも長い時間がかかるだろう。でもきっと叶えようと思っている。

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