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自分の文体なんてものはない

宇佐美りん著『推し、燃ゆ』を読んだとき、主人公が定食屋でバイトをしている場面に感動してしまった。定食屋の忙しなさと主人公の至らなさが、描写だけでなく文体のレベルであらわされていると思ったのだ。上手く言えないのだが、文体は作者の癖とも違うのだということが、はっきり分かった。ここまで持っていくには相当書かなきゃ駄目だぞ、と身が引き締まる思いだ。

以前は文体に対して理想を抱いていた。書いていくうちに「自分の文体」と呼ばれるものが見つかって、なんとなく作品の書ける幅も広がるのではと考えていた。そうではないということにようやく気がついたのだけど(遅い)。

一人称小説は当然ながら主人公の主観で書かれているので、そこに作者の意図や都合の、入りこむ余地はないはずである。主人公の持ち合わせている知識、思考、認知、取り巻く環境や状況、その他諸々に依存した状態で、文体が立ちあがる。一人称小説で書かれる主人公の数だけ文体が出来上がる、ということだ。それが可能かどうかは別にして。
物語上でなにかしらの違和感を感じるとき。それは作者の都合を優先してしまっていることが要因のひとつとしてあげられるだろう。それが目に見える形、文体にあらわれているのであればなおさらである。

では三人称小説はどうだ。自分の文体がものを言うではないかと考えてしまうが。
そもそも、今現在、完全な三人称(神の視点)で小説を書ける作家が、どれほど存在するのだろうか。たいていが一人称寄りの三人称小説ばかりだ。これだってやはり、文体が主人公の思考や佇まいに依存してしまうのではないだろうか。

勘違いして欲しくないのだが「書けないから駄目」ということでは全くない。物語のなかに「内面」という概念ができあがった近代以降、完全な三人称小説が書かれなくなってゆくのは自然の成り行きだからである。登場人物の「内面」を重視するには完全な三人称小説では不都合が多い。ただ、それだけの話だ。

よって、自分の文体について考えるよりもストーリーや登場人物の必然性を優先させるのが理想的だ。自分のなかから湧いてでてきた物語なのに、それが他人行儀の顔をする、というむず痒さはあるけれど(作家は演出家と演者を兼ねているのかもしれない、ある意味で)。

色々と語ってしまった……最後に『推し、燃ゆ』のリンクを貼って終わろうかな。本当に好きな文体だったのでおすすめです。こういうふうに書けたら気持ちがいいだろうなあと思います。


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