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【短編】人魚の白粉

 僕はいちごが敷きつめられたタルトを指さした。「これが良いんじゃない」と振り返ったけれど、さっきまで一緒だった母さんがいなかった。ほかの菓子を見に行ってしまったのだろうか。僕は制服の詰め襟をゆるめて、売り場をまわる。どこもかしこも春限定の商品がならび、薄桃色の吐息で満たされていた。
 ふと、フロアの奥に見覚えのない扉があるのに気がついた。ひとの影すらも通らず、忘れられたかのように、ぽつんとあった。
「あんなところに、売り場なんてあったかな」
 硝子窓からにじんだひかりが、僕を手招いている。把手に指をかけて引く。人工的な甘い匂いが鼻さきをくすぐった。真っ白な内装に、ぽつぽつと飾られた小壜が色づいている。化粧品売り場だ。いつの間にできたのだろうか。不思議がっていると、お姉さんが微笑みながら、こちらに歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ。なにかお探しでしょうか」
 僕はあまりのまばゆさにとまどっていた。「いえ、間違って、はいってしまって」と答えようとしても、うまく舌がまわらない。お姉さんは僕の背中をそっと押して、銀でふちどられた丸い鏡のまえに座らせた。
「そんなはずありませんわ。ここに入れるかたは限られていますもの」
 スーツを着崩したサラリーマンをちらりと見て、こっそりと僕に耳打ちした。
「ボディクリームを選んでいる彼、いるでしょう。あのひとは、猫になって夜の集会に出ているのよ。人間相手のお仕事がうまくいっていないから、猫にむかって営業をかけているのですって」
 そしてまた、別の婦人を指さしては、
「あのかたは決まって金曜日に来られるの。真実を見抜くためのアイラインをお買いになるわ。きっといいひとを見つけるためね」
 ほかにも懐かしい思い出を呼び覚ます香水や、美しい言葉だけをつむぐ電気石の口紅、未来を見ることのできる星屑のシャドウなど、さまざまな化粧品がならんでいる。手に取るお客さんはあらゆる性別の、あらゆる年代のひとがいた。
「つまり願いを叶えてくれる化粧品をあつかっているってこと」
 僕がそう言うと、彼女は穏やかに頷いた。
「じゃあ、僕じゃなくって、妹の願いを叶えることはできますか」
 僕は妹の、絵理の、青白い頬を思い浮かべていた。三年前から心臓の病気をわずらっている、ほとんど外へ出られない、可哀相な絵理……彼女が窓のむこうに羨望のまなざしをむけるたび、僕の胸はひりひりと痛むのだった。
「それでしたら、人魚のうろこからできた白粉がいいかもしれません。つけている間は、身体も心も軽くなり、病気は次第に良くなるでしょう。ただ肌に合うかどうかは……」
 僕はひととおり説明を聞いて、そのコンパクトを買った。化粧品売り場を出ると、ちょうど母さんと鉢合わせになった。
「ちょっとどこへ行っていたの。もう行くわよ。面会の時間が終わっちゃうわ」
 最初にいなくなったのはそっちなのにと思いつつ、僕は母さんから真っ白な箱を受け取った。

 病室に顔を出すと、絵理は算数のドリルをやっていた。僕たちを見あげてノートを閉じ、柔らかく微笑んだ。
「お兄ちゃん、入学おめでとう。制服、似合っているよ」
「でも、少し、袖があまっているんだ。格好悪いだろう。服に着られているみたいでさ」
「これから大きくなるんだから、仕方ないの」
 しばらく他愛のないお喋りをして、真っ白な箱からケーキを出すと、母さんが飲み物を買いに席をはずした。それを見計らって、僕はポケットからそっと小箱をとりだす。
「母さんには内緒だよ」
 彼女は目をまるくして、乾いた唇をはじいた。
「開けてもいい?」
 僕が、もちろん、と頷くと、春風のようなりぼんが細い指につままれて、するするとほどけていった。
「まだ四年生だから早いと思ったんだけど、プレゼント。頬につけてごらん。きっと元気になれると思うから」
「ありがとう、お兄ちゃん」
 貝殻のかたちをしたコンパクトを開くと、正面に丸い鏡がついている。パフの下に敷かれた粉は、きめが細かく、角度をかえるとさまざまな色合いにきらめいた。絵理は慣れない手つきでパフをとって頬にすべらせた。赤い薔薇の花がひらくように、みるみる明るくなっていった。

 僕が新しい学校に慣れてゆくたび絵理は少しずつ快復し、次第に僕たちのことを忘れてしまうようになった。主治医にも診てもらったが、原因は分からなかった。化粧品売り場のお姉さんが言っていた「肌に合わない」とは、こういうことだったのだろう。
 外出許可をもらった絵理は、よそ行きの服を着て嬉しそうに跳ねまわっている。僕としては、彼女が元気でいられるなら、僕らを忘れて別の人間として生きていっても良かった。母さんと父さんにとっては、たまったものではないかもしれないけれど。
「百貨店の、屋上遊園地に行ってみたいわ」
 絵理の言葉に、僕は薄らともやのかかった記憶を探る。たくましく駆けるメリーゴーランドの馬や、空に手がとどきそうなほど昇る観覧車。星雲のような綿あめは食べても食べてもなくならないほど大きく、そしてまだ幼かった彼女はそれを頬張りながら、小さな手で僕の袖を引っぱっていた。
 いまの絵理も、そのときと同じように僕の袖をつかんで「あれから乗ろうよ」とメリーゴーランドを指さした。僕たちは、塗装のはがれた馬に跨がった。母さんが手を振りながら、嬉しそうにカメラを構えている。
 あのときの思い出をやり直すように、ひとつひとつ遊具をまわった。珈琲カップに、模型列車、ミラーハウスをめぐり、最後に乗った観覧車のなかで、はじめて絵理の表情が曇っているのに気がついた。
「少し疲れちゃったね。だいじょうぶ」
「わたし、前もここに来たことがあったのね」
 指紋のついた窓に、夕焼けのひかりが歪む。
「どうしてこんなに大切な思い出を……お兄ちゃんから、白粉をもらってからよ。いろんなことを忘れてしまうみたいなの」
「でも、その代わりに、病気は治っているんだろう」
 僕の声は機体のなかに溶けた。観覧車はもう天辺をすぎいて、あとはゆっくりと落ちてゆくだけだった。絵理ははっとして、みるみる顔を赤くする。
「わたしは嫌よ。みんなを忘れるくらいなら、死んだほうがましだわ」
 そう言いながら、鞄から取り出したコンパクトを、躊躇いがちに叩きつけた。貝殻の口からこぼれた粉がぎらつく。
「ごめんね。僕はきっと間違っているのだと思う」
 粉は、目を背けたくなるようなひかりかたをしていた。
「でも、きみが死んでしまうほうが、ずっと怖いんだ」
 転がったコンパクトを拾って、僕はひび割れた粉のかたまりを撫でてならした。丸い鏡を服のそでで拭って、パフをもとのところに置く。そっと蓋を閉じて、絵理に差しだした。彼女は首をふって受け取ろうとしなかった。
「わたしは他人になるほうが怖いわ」
「だいじょうぶだから、必ず使って。絵理が僕を忘れても、僕はずっと覚えているから」
 白い手のひらにねじこむように、コンパクトを握らせた。僕の指先も震えていた。
「……分かった。お兄ちゃん」
 ちょうどそのとき観覧車の扉が開いた。笑顔だった母さんは、すぐに眉をひそめて、絵理の肩を抱く。
「あら、どうしたの。絵理ちゃん、どうして泣いているの」
 絵理は言われて気がついたらしく、急に目尻をぬぐって「なんでもない」とはにかんだ。そのあとは一階へ降りて、彼女の好きなショートケーキを三つ買った。大きないちごと、二粒のブルーベリーが乗っているやつだ。真っ白い箱につめてもらっている間、僕はそっとふたりから離れて、あの化粧品売り場を覗いてみた。硝子窓の向こうは真っ暗だった。扉の把手に鎖がまかれ、南京錠がぶらさがっている。通りすがりの清掃員に訊くと、この部屋は二十年以上前に閉鎖されたということだった。
「じゃあ、僕が行ったあの売り場は、何だったんだろう」
 でも、そんなことどうだっていい。あともう少しで絵理が助かるんだ。そう自分に言い聞かせながら、ふたりのもとへ戻った。これで良いのだと、そのときの僕はほんとうに思っていた。

 初夏の日射しにあてられて、皆が額の汗をぬぐっているなか、絵理は安らかな顔をして眠っている。もう、とうに死化粧は終わっていて、痛々しい呼吸器の跡がきれいに隠されていた。僕はそっとコンパクトの蓋を開けた。ほとんど手つかずのまま残された粉を指ですくって、絵理の頬に引いた。艶がはしって、そこだけ熱をもったように明るくなった。
 強く風が吹いて、木漏れ日が深くなだれこむ。布団のうえで影が踊った。絵理の唇が薄くひらいて、僕になにかを伝えようとしている、気がした。そっと近づいて、耳を澄ます。細い風の声が、小さな口の端からこぼれている。ぱちり。と、僕は合図のように、コンパクトの蓋を閉めた。

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