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ヴァーチャル受胎
ヴァーチャルYouTuber(以下:V)を観ていると、本当に様々なひとたちがいるのだなあと感心する。歌がうまかったり、喋りが良かったり、多才だなと思う。外見も千差万別で、動物も無機物もいる。動く人も動かない人もいる。それぞれ思い思いに活動をしていて、楽しそうなのが伝わってくる。
外見や設定が個性的であればあるほど観られるのかと言われれば、そういうことでもないみたいだ。声も大切なのだと思う。そして落差があればあるほど良いのかもしれない。ヴァーチャル世界に存在しているのに、声だけがリアルそのものという落差。アニメ声より飾っていない声のほうが、演技より素のほうが、この落差が大きいのでぞくぞくする。
自分がもしやるのであれば、どういう外見でどういう設定なんだろうなというのも考えなくはないが、結局、視聴者が一番、彼らにリアリティを感じるのは声なのだから、それならもう、ラジオで充分ではないかという気もしてくる。
ヴァーチャルの強みは、空間だ。その空間を有意義に使えるのなら、受肉する価値はあるのかもしれない。でも私には技術がないし、現存するVでも有意義に使えているひとは、ほとんどいない。というか、ヴァーチャル空間そのものに需要がないのかもしれない。キャラクター性のほうが大事という感じがする。そしてそのキャラクターを守りながら、少しずつ自分を出してゆける人が強い。やはり考えれば考えるほど、私はVになる必要はないなと感じる。でも違う自分になってみたいのも事実だ。「私」を縛りつけている身体から解放されたい。そう思いつつ、ヴァーチャル世界と現実世界の間をさ迷っている、亡霊のような心地。
受肉以前の、この感覚はまさしく受胎だ。新しい身体の「私」を産み落としてしまいたい。激しくそう思ったときに、ふっと、ヴァーチャル世界で何気なく生きて行くかもしれない。もしくはそのまま腹の中の「私」を殺してしまうかもしれない。いつかはやりたい。でも今はやらない。という、決意の揺らぎにとらわれ続けて、結局何も変わらないかもしれない。
そんなふうに、どうしようどうしようと思っているうち、まわりはみんなヴァーチャル世界に行ってしまって、生身の身体のままでいるのは私と、あとは知らない誰かが数人。それだけになってしまった。
目の前のモニターから声がする。青白く私を呼んでいる。
「あなたの身体をおつくりします。パーツをお選びください。」
「なりたい身体でもいいんですか。」
「構いません。」
目がまわりそうなほど沢山のパーツが並んでいる。頭身から指紋の渦まで決められるみたいだ。選び取っては捨ててゆく。どれも、なりたい私にぴったりのようだけど、よく見たら全く違う。他の人たちはみんな、パッと新しい身体を選んで、さっさとヴァーチャル世界へ行ってしまった。私だけがモニターの前で唸っている。ずっと迷い続けている……理想の私ってなんだったかな。
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