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20210502

緊急事態宣言が発令されて一週間が経過した。今回の宣言では商業施設全般に広く自粛要請が出され、デパートや書店、イベント事業に至るまで、無関係な多くの人々が休業を余儀なくされている。路上での酒宴防止のためネオンの消灯指示が出され、街の明るさは半分程度になった。どこも空気が重く、なんとなく元気が無い。

宣言の内容が発表されたときは、イライラを抑えられなかった。不満点は、①感染に無関係な休業要請が多すぎること。②損失に見合った保証が無いこと。③要請の根拠やエビデンスが無いこと。④強権的な方法で実施されていること。⑤そもそも憲法上の社会権や自由権が侵害されていること。⑥宣言がオリンピック開催を目的としていること。このような感じだろうか。私の実生活に関係しているのは①のみで、②~⑥は社会への義憤だ。ちなみに私はコロナで収入が減ったということもない。

宣言初日である4月25日に予定されていたグレイプバインの日比谷野音公演は、一時は実施が危ぶまれていたものの、無事開催された。披露された新曲「Gifted」には《神様が匙投げた/明らかに薹が立った世界で》という一節がある。このバンドの歌詞には「神様」という語が好んで使われる。街は神などいないかのように動く。

ふと思い出して、香港の民主活動家の周庭さんのインタビューを読み返すと、「香港ではいま、めっちゃばかばかしいことばかりが起きています」という発言があった。彼女は民主的な選挙制度のある日本を羨ましがっているが、そんなことはないよと言いたくなる。そんなものはとっくに攻略されていて、暮らしやすくなることは全然ない。

この非常時を迎えてやっと、「私」は「社会」に支配されていると実感した。「社会」というのはつまり権力のことだ。「社会」の立場としたら、「私」が心を殺しておいてくれたほうが好都合で、「私」がいないほうが「社会」はむしろスムーズにまわる。「私」にとってこの事実は受け入れがたいが、受け入れ難さと正誤は関係なく、事実は事実だ。この「私」は、なにも筆者である私だけを指しているわけではない。
でも、そのうえで、私は何をすべきなのだろうか。自死を選んだとしても、それは殺されたのと一緒だ。殉死できる真実はどこにあるのだろうか。

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