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古本屋

古本屋

親指と人差し指に力がこもる。
男は有り余る力を左手の拳を握りしめることによって、今の自分を支えているようだ。
 ここは、とある下町の古本屋。
 住み慣れた人でさえ、よく探してみないと、見過ごしてしまうほどの文字通りの古ぼけた本屋である。
中に入ってみると、すぐ目に入ってくるものは、狭いスペースに入りきれないはどの本棚が所狭しと並べられている。
まるで迷路のようだ。
ここでは、隣の人と目の合う事は皆無に等しい。
 それほどお客がいないのかと言うと、そういうわけでもない。
 居る事は居るのだ。
 ただし、決まりきった客、つまりその道では通と呼ばれる常連さん だ。
 ここでは他人の干渉など全くない。
 それぞれの人が目的の本に目をやり、腕を差し伸べる。
 この時点で迷路状の本棚が孤立し、その人だけのインスタント空間ができあがる。
 他人の干渉など届かない所に自分がいる。格好の場所だ。
 さて、親指と人差し指に力を込めて、ありあまる力で左手の拳を握りしめているこの男も、やはり常連なのであろうか?手にしている方は、白紙の本である。ブックカバー、目次、あとがき、全て真っ白な紙、決して紙の材料は良くない。
 その本を親指と人差し指でしっかり支えて持っている。
 右腕はだらんと下げたまましかし、その拳はあくまで力がこもっている。よく見ると、男は親指と人差し指で本を持っているが、残り3本指がない。こんな男を周りにいる人なら、誰でも不思議な目で、また興味深い顔でみるに違いない。
何も書いてないよ本を、左2本の指で支え持ち右手は拳に力を入れ、小刻みに震わせているこの男を…
 だが実際は、誰1人としてこの男に気づくものはいなかった。この迷路状の古本屋。その道では、通と言われる常連さんにはさほどの事でもなかったのであろう。インスタント空間で、それぞれの人が、それぞれの人生を満喫しているようだ
 だからこそ、この男もこの本屋を選んだのではなかろうか。
 この男が夢中になって読んでいる本【とは言っても全て白紙だが】
 この男はどんな人生を読んでいるのか。
 彼の目となって本の中を覗いてみることにしよう。
 生まれながらにして、彼の左手には親指と人差し指しかなかった。彼も人間だ。時が経つにつれて、思春期と言う時代が人を見比べることなく通っていく。彼はいつも左手をポケットに突っ込んで、決して人前ではその左手を見せる事はなかった。
  できる事は全て右手で済ませようといつも心がけていた。それを周りの友達が面白半分でからかうんだ。「おいあいつ、いつもポケットに手を入れたままだろう。なぜだか知ってるか?あいつ指がないんだぜ。」
「おい俺、お前のこと嫌いだから絶交しようぜ!ほら、絶交の握手は左手にするもんだぜ。ほら早く出せよ、ほら、」
 彼はこの言葉を聞くためにその言葉の本人に右の拳で殴りかかった。だがある日、いつも通りに彼は、あの言葉を聞き、右の拳で本人に殴りかかった。
 だが、しばらくしてもその子は、
倒れたままで起きようとしなかった。倒れた勢いで、打ち所が悪くその子は、それっきりだった。
 幸い彼は、過失致死の書類送検でその後、1人の人間として日々を過ごすことになる。
 しかし彼は複雑な気持ちだった。亡くなった少年は彼の幼なじみでもあったからだ。
 幼い頃少年と彼はともに仲良しだった。
学校の先生から2人が喧嘩をして殴り合いやっている間、「人間はともに仲良くしなくちゃいけないのよ。殴り合ってぐーを出しているばっかりだったら握手もできないでしょ。さぁ手を開いてパーにするのよ。」
 彼はこの事件以来、決して右手を開く事はなかった。日も暮れ始めた頃、男は白紙のページも終わりに近づいてきただろうか。本を閉じ、初めて周りに目を配った。 
 右手は拳を作ったまま。
 おもむろに本屋から外に出る。西日が黄金色に男の顔を照らし始めた。
 男はポケットから始めて左手を出し額の上に手を当てた。
 不思議なことに、光を通して男の左手の指は5本にはっきりと見えた。男は目を疑った。男はもう一度額の上の左手見つめ、ほっと一息ついた。男の右手は、拳を握ったままだった。


 

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