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誕生日の考え方

皆さん、今日は何の日かご存知ですか?

そうです!世界中で愛されるミッキーマウスとミニーマウスの92回目の誕生日です!!

そして、皆さんにはどうでもいいことですが私自身の誕生日でもあるので、自分の誕生日の考え方が変わったことについて少し書いてみたいと思います。

子どもの時は自分の誕生日が嬉しく「お祝いしてもらえる日」と思っていました。
5歳か6歳ぐらいまでは近所の同年代の友達が鉛筆・消しゴム・ノートなどのプレゼントをもって家に来てくれて、母が手料理を振る舞い、誕生日会をしていました。
これは我が家だけではなく近所の家でもそうでした。
裕福というわけではなく、めちゃくちゃ田舎です。
その地域みんなが知り合いで、みんなで子どもたちの成長を見守ってくれていたからこその習慣だったと思います。
みんなが文房具をプレゼントしてくれるのでこの当時からめちゃくちゃ勉強しました。
#嘘です
#あのプレゼントはどこにいったのだろう
#なんかごめんなさい
 
年齢を重ねてくると誕生日会はなくなりました。
小2から野球を始めたので、そもそも他の人の誕生日会に行くこともできなくなりましたし、自分の誕生日会をしてもらうこともできなくなりました。
家族だけではありましたがささやかながらも誕生日を祝ってもらえていましたし、好きなことをしているのでそれが淋しいとも思っていませんでした。
 
中学、高校、大学の時の誕生日はよく覚えていません。
親からのプレゼントはあったりなかったり、プレゼントもモノから現金に変わっていきました。
高校生の時に当時付き合っていた人からプレゼントをもらいましたが、「あなたな親のお金やん!」ってちょっと複雑な気持ちなったのは覚えています😅
この当時も、まだ「お祝いしてもらえる日」という感覚だったと思います。
 
社会人となり、自分の誕生日は「お祝いしてもらえる日」という感覚と同時に「親に感謝する日」という部分が追加されてきました。
働くことの大変さを実感し、ここまで育ててくれた感謝の気持ちが大きくなってきたからだと思います。
 
そして、自分の誕生日の捉え方が大きく変わったのが28歳の誕生日でした。
理由は2つです。
1つはその少し前に長女が産まれたことです。
自分が親となったことで自分の親への感謝がより一層大きくなりました。
もう1つはこの言葉に出会ったからです。
「諸人よ 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」
 
私は3兄弟の末っ子です。
私が産まれたのは土曜日で、その当時は土曜日も午前中は学校や仕事でした。
7つ上の兄は小1だったので、母は父と兄のお昼ご飯を準備して、2つ上の姉を祖母に預けて、私の出産のために病院に向かったそうです。
私が産まれたのはお昼過ぎ頃でした。
その話を聞いて中学や高校の時は「3人目ともなると余裕だね」なんてことを母と話をしていました。
 
今は分かります。
そんなことがあるわけないことを。
3人目だろうと母が自分の体を傷つけ、命を懸けて私を産んでくれたことを。
 
自分が親になったこと、言葉に出会ったことで自分の誕生日の捉え方が「母への感謝の日」に変わりました。
 
 
今朝は娘や妻がおはようと同時におめでとうを言ってくれました。
娘たちは動画をつくって送ってくれました。
嬉しかったです😉
 
それと同時に母にLINEしました。
私を産み、育て、そしてずっと見守り、気にかけてくれていることへの感謝を伝えました。
 
自分の誕生日の捉え方の変化、その大きなきっかけが「経験と言葉との出会い」だったということを書いてみました。
母への感謝の気持ちと娘たちからのプレゼント(動画)への喜びを胸に今日も一日、がんばろう😊

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