アカデミーの『君たちはどう生きるか』

この映画の体験は、1度目は、得体のしれないもの。2度目は、もとからあるもの。この様に変化した。

初見は1度とりあえずのストーリーを経験すると何も解らず、おののくのですが、後日再び同じ映画が始まると、いつもの宮崎作品があるのです。世界は何度でも。

それでも、言外の不一致とでも表現できない部分があるのがアニメーションなのかもしれない。総合芸術としての映画は物語であって、アニメは何かを宿している。

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ドキュメンタリーも見る。この中で印象的なのは、師匠高畑氏の筆跡を真似る行為で、筆跡は完全に一致する。

この大いなる矛盾は、宮崎作品は、瞬間を描く時間の芸術なのに、テクストにこだわり、そのコピーに努めた般若心経である。

そして、宮崎さんも高畑さんの作品になるのだろうか。

高畑さんになりきる、きつねかタヌキか。なりきる。

この不思議さには、妙に納得できるところがあって、観賞すること。それは、ばかされる行為になる。

今作のドキュメンタリーの品質に関しては、少し長かったとは思うぐらいです。1時間で良かったかもしれない。

(とはいえ、ポニョのドキュメンタリー作品のボックスセットのファンなのですが、5枚組で何時間だったか覚えていません)

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宮崎さんのコンテ集がある。コンテの中で、アニメーションより、文字に惹かれる部分がありまして。私はです。

その筆跡は、宮崎さんのものではなくて、高畑さんから受け継いでいるという事実に驚かされます。

師匠の文字を写経するように真似る。

ここに師匠、先生の素晴らしさを感じてしまうのです。一見無駄なことが、細部にアニメーションは宿り、それが自らの作品を生みだす。

何もかもトレースする。

その事によって表現する。動くという驚きおののきが大事であって、変化するトレースは自己矛盾かもしれない。

これによって、登場人物の元ネタを探してしまうと、どこにもいない。それが解ってしまう。

トレースされない。

映画の世界は、現実ではありません。

宮崎マジックは、反転のアートだった。詩人はどこにもいなくて、テクストは無くなり、ただ映画が残される。


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