『蛇の道』黒沢清

ネタバレ。

まず、リアリティのようなものを設定する。この場合設定されるものは、黒沢監督お馴染みの事物として、映画の中の映画(画中画)です。

画中画でうつしだされるものは、一つ、動画のトラウマ。もう一つはリモート対話です。

これは、トラウマが、物語を進行させる「移動」を目指すものと理解されます。次にリモートが日常を、とりわけ、この映画の構図では、一対一という会話で、互いに理解できないものと解されます。通常の映画の会話では、左右の反復と、悪役だったら少し変化させる構図で関係性が表現されるという具合になります。

ところで、カット(ショット)のパワーというものは、20世紀の映画だったら意識すると思うのですが、現代の映画の場合は、役割や進行具合を確認する程度ものものと、私は考えています。

単一の視座で鑑賞する自己というものは、少なくとも複雑な存在者を想定しないといけない訳で、映画の文法というものが、大きく変化する中では、型というものが不自由に感じてしまう。

というのが、過去のリメイク作品であることの、本作が持つテーマに関係するかもしれません。

それでは作品で感じた事に参ります。

リアリティが現実の世界(この場合は映画の観客を含む世界観)ではなくて、作られたものである事が重要になります。

作中で進行する物語は、ミステリアスな犯行それ自体は、ファーストカットで告知されるものですが、サスペンスである事が理解される。

この時点で、結末は決まっていて、それを防ぐ事は不可能だ。映画の悲劇性は、その受難に意味がある。

本来的な黒沢作品、これは作られた日常の中で、非日常が対立するという事。それを、観客席から、乗れる・乗れないという対立で捉える。深い考察を、自分ごとの体験として成立させる。

非日常は、ノーマルな社会に、見過ごされている概念ですが、それを体験する事が、日常に向かわせる。

主人公、小夜子の表情が無い事、その演出自体がテーマにもなります。

ところが、この表情は、演技するという意味で形成される役者と、その筋書き通りに向かわない。このハプニングによって打ち消される。

これは冷徹なサイコそれ自体にひそむ人間的な感情のあらわれとして見出されるが、一体何を意味するのだろうか。非日常は、どう機能するか。

深刻なトラウマ(のようなもの)は、社会で、どのように解消されるのか。

(これは、現代社会が、解消されないような問題を含むというアポリアのアイロニー。つまり、どん詰まりをどう表現して、どう理解されるかという処世術も、映画演出かもしれません。日常の中では、部分的に役割を演じる訳ですが、社会全体としてはまるでカオスに至ります。それは一見整っているように見える。)

そうすると、映画館の最も暗い暗室で、行われる画中画は、観客のものであるという視点になります。

つまり、『スパイの妻』で描かれるような、登場人物のスパイとして生きる事、それ自体が意味を持つ。これは悪という定義できない悪夢。この意味を潜在化させた上で、それに立ち向かう事、その行為性が強調される。

これも演技としての物語です。

世にある悪が、必然的に、そういう原理になっているから、防ぐ事が出来ないというような、あきらめや、それ自体を無かった事にするという現実。これは初期のノーランのような非人間性です。(多分意図的に物語を創っているはずです)

そうすると、その非人間性は、人間の能力と、それに対立するかのようなケアとキュアの図式になるかもしれません。

そして映画の構造の中で、ハプニングとして変化とそれに対応する感情のようなもの。これが、垣間見えるという事自体が、恐怖の中に安らぎがあるような、やはり20世紀的な演出を感じます。

ところが、その部分にこそ、自己があり他者はハプニングとして出来事になる。何らかのきっかけとして、本来的な自己をうつしだすかもしれない。

それと比べると、この映画の登場人物が、完全に作られた、物語の枠組みでしか行動しないという、本体的にはコメディのパターンですが、それを真剣にやる事にドラマがある様に感じます。

自らに課せられた、パーフェクトに無意味な運命を、当然のものと受け入れている。これは、個個人の持つ、やましさと、私は蚊も殺さないような善人であるというヒーローを演じる事の放棄かもしれない。

私は、結構、客観的に鑑賞してますが、弱いストレスというような映画演出は、感想としての映画鑑賞を、その恐怖とは裏腹に前向きな何かを感じます。

特に理不尽さは、強調されています。この構図も『スパイの妻』のような悪を前提とした対比と考えます。

この場合は、真の恐怖というものを一度保留したうえで、更に、社会の問題を考えるという開かれた世界への準備体操に見えて、映画のスクリーンの表と裏の世界は、人間とも自然ともつかない変化と非変化である。

これが、ラストに込められている。これを感じ取る事ができると飛躍できる。能力。そして自由。それを体験できる。

ここ数年の、社会を記憶として呼びおこし、思い出したくもないもの(リモートもその一部分として監督は考えていそうです。)、そのやんごとなき肯定に、黒沢的にケアされている。

(ケアは、ちょっとだけニュアンスが違う様に感じます。キュアでも無くてバージョンが違うだけでは無さそう)

感想ありましたら、是非。

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