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右の頬を打たれたら


お人好しの話をしていて、思い出したことがある。

幼かったころの話だ。たぶん、幼稚園の年少組か、そのへんの。


母によると、私はずいぶんお人好しだったらしい。

幼稚園に持っていったクレヨンセット、お友達から「貸して~」と言われて「いいよ~」と差し出した。
手元に戻ってきたら、ちびって折れてボロボロになっていた。

なのに、ニコニコして持って帰ってきたそうだ。

自分ではまったく覚えていない。誰かにものを貸したり順番を譲ったりするのは日常茶飯事のことだったのだろう。

「こんなお人好し、知らんわ」
母がよくそう言って、呆れて笑っていた。


今になって自分のお人好し度を分析すると、

自分が譲れるレベルだったら、相手の「ほしい」に合わせたほうが、結果的に自分も嬉しくなれるからメリットなのでは?

という心理が働いていたのではないかと思えるが、幼い私に自分の気持ちを言語化することができるわけもなく、そのまま大きくなった。


そして私は、大人になってもお人好しだった。


お金を渡したりはしなかったけど、
もっているものはシェアした。物理的でないものを含めて。

お困りごとを聞いて、いろいろ調べていくのが楽しかった。
わかりやすくまとめをつくったり、デザインを足したりして、ちょっとしたサプライズを思いつくとワクワクした。


「ありがとう!」が嬉しかった。


周囲からは散々に言われた。

「器用貧乏やな」
「いつか身ぐるみ剥がされるで」
「人生損するわ」
「あほやな」

笑われるならまだいいほうで、

「相手をつけあがらせてどうする」
「自分で勉強しなくなる。教育に悪い」
「おまえみたいなもんがおるから搾取がなくならんのや」
「価格破壊起こすな」

ずいぶんまじめに叱られもした。


余談だが、実はいまでも価格をつけるのは苦手だ。

生きていくのに支障がなければ「ありがとう」に値段をつけないで過ごしたいのだが、そういうわけにもいかないので、友人に助けられながら見積書を作っている。

私に仕事を頼んだ方、他と比べると混乱する価格かもしれませんが、このような理由のため気にせずご希望をおっしゃってくださると助かります。

☆☆

話を戻そう。

単なるお人好しは行動に理由がないから、何度もダメ出しされると凹む。

特に「あなたのやさしさは相手の成長を妨げている」という指摘を受けると胸が苦しくなる。
加減できないだけに、自分の存在が世の中をだめにしていると思えてくる。


不器用な人に「要領よくふるまうのが賢い生き方」と言うのは、正論なのかもしれないが、残酷な指導だ。

まずは、そういうお人好しの存在をそのまま受け止めてほしい。

ボロボロのクレヨンを持って帰った幼子に
「貸したら汚されるから気をつけなあかんねんで」と言う前に、
「お友達によろこんでもらえてよかったね。やさしい子やね」と、

まずはそのままでいいのだと、言ってやってほしい。

そのうえで、価値基準には鷹揚でいるようにしたいものだ。
社会が違えば180度ひっくりかえるのだから。


昔、お人好しだと言われて落ち込むたび、

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というたとえ話を思い出し、
あれよりはましだ。痛くないし。いのちに関わらないし。と思っていた。

だが、あの話、真意は別のところにあるらしい。


一般的に右利きの人が右の頬を打つときは手の甲で叩く。当時は身分の貴賤があり、卑しい者を叩くとき手のひらだと汚れるとされていたため、右頬を手の甲で叩くのが一般的だった。

左の頬を差し出すのは、手のひらを使うほどの対等な関係であることを認めろというわけだ。

すべてを投げ出す愛の話かと思っていたら、とんでもない事情が紛れ込んでいた。ちょっと騙された気分になったが、つまるところ文化なんて、この程度のものなのだろう。


だから、全国のお人好したちよ。

あなたのそのやさしさは、きっとどこかで意味をもつようになるはずだから、どうか心折れないで生き続けてほしい。


「ありがとう」が回る中で不器用なりに生きやすい社会になるように、私も少しずつ言葉の開拓を続けていきます。

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