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酒を飲みすぎて耳からガラス玉を出した話

およそ2年前のある朝、私は左耳に違和感を感じていた。

その日は平日で、いつもどおり会社に出勤する日。昨日は少し、いや、ちょっと酒を飲みすぎたけど体調は良い。いつもどおりの時間に起きて、いつもどおりテレビのリモコンを手に取り、いつもどおり電源を入れ、いつもどおり朝の情報番組を見ていた。

聞きなれたアナウンサーの声。でも何かが違う。いつもと違う音の違和感。左右の耳から聞こえてくるテレビの音のバランスがおかしい。

テレビが壊れてる・・・?試しに一度電源を切り、再びオン。さっきと変わらず音のバランスが崩れているような・・・気のせいのような・・・

一人暮らしだった私は、私が感じている違和感を誰かと共有することができなかった。なんか今日テレビ、変じゃない?誰かに確認したいけど、誰もいない。なんとなく違和感はあるものの、体調は万全だし出かける支度もできた。何も問題はないじゃないか。気にせず行こう。ペットのネズミに「行ってきます」と挨拶をしても返事はもちろん無いけれどそのまま出勤。

会社について、朝の違和感が確信に変わった。
左隣に座る同僚Tさんの声が小さい。彼はもともとおとなしく穏やかで声量の小さい人だけど、いつにも増して声が小さく遠くに感じる。ひっきりなしにフロアに響く電話の着信音も小さい。

そのほか、ありとあらゆる物の発する音が、軒並み小さい。左耳だけ。


絶対病気だ。

日々のストレスから、耳の病気になったに違いない。突発性難聴ってやつじゃないか。ストレスを受け続けると難聴になると聞いたことがある。それだ。絶対それだ。あまりにもストレスフルなこの仕事に、体がついに拒否反応を示したんだ!今まで超健康優良児として生きてこられたことをいいことに、体に気を遣ってこなかったツケが来た。30才を目前にして私もついにストレスが体に表れるようになったのだ。加齢、辛い。

職場のパソコンで「耳 聞こえづらい ストレス」と検索。

ストレスにより突然耳が聞こえづらくなることがあります。症状が軽いからと言って放置すると、どんどん悪化し2,3日でまったく聞こえなくなり二度と聴力が戻らない場合もあります。

ほらね。やっぱりそうだ。ストレスだ!もう手遅れかもしれない!!!!
と思ったが「耳 聞こえづらい ストレス」で検索すればこの結果が出るのは至極当然だ。むしろこの検索結果に自ら向かっていったと言ってもいい。じゃあ、病気じゃないのかも。昨日、酒を飲みすぎたからかも。


耳の違和感を同僚たちに話したところ、その場にいた全員が口を揃えて「早く病院に行ったほうがいい!」と言った。

いつにも増して声の小さい同僚Tさんも、病院に行くことを勧めてくれた。Tさんの声は小さいどころかもうほとんど囁きにしか聞こえない。

万が一めちゃくちゃ重病だったらどうしよう・・・耳の保険とか入ってないし・・・などと一瞬ためらったものの、同僚たちが背中を押してくれたこともありすぐに病院に行くことにした。職場から一番近い耳鼻科を検索し、経路案内スタート。徒歩10分ほどで着くようだ。

到着した耳鼻科は、レトロ感が溢れるこじんまりとした医院だった。緊張の面持ちで扉を開ける。(手動ドア)
誰もいない。茶色いスリッパに履き替え、受付の小窓から声をかける。応答なし。こういうレトロな医院の受付窓口ってやけに小さい。窓口のまわりにお知らせとか色々貼っちゃってるから中も見えない。今日休みなのかな?でも入口開いたしな。待合スペースにも他の患者はいない。

そのまま突っ立っていると、奥から受付の女性が出てきた。

どうされました?うちを受診するのははじめてですか?
耳が聞こえないんです。テレビの音も人の声も、左耳だけ聞こえづらいんです。

いくつか質問されたあと、問診票を書いた。

しばらくして奥の診察室に通された。奥にいたのは、優しそうな年配の男性の医師だった。この医院は、この先生一人でやられているようだ。

丸椅子に座って病状を説明した。ここに来るまでの間、突然耳が聞こえなくなる症状についてスマホで調べながら来た。ストレスによるもの、脳の病気によるもの、単に耳クソが詰まっているだけのもの…一体原因はなんだろう。

そして、診断結果を言い渡されたときのリアクションをどうするかについてもある程度考えてきた。ストレスということであれば、悲しげに肩を落として「そうなんです…仕事が辛くて…」と言い、どうにか診断書的なものを書いてもらってしばらく仕事を休めないだろうか、とか、単に耳クソのせいです、ということであれば「先生、わたし恥ずかちぃです~!」とおどけて見せよう、などと考えていた。

とりあえず耳の中見てみようか、と言われ診察台に横になった。もし耳の中で何かが見つかるとしたら、それはきっと耳クソだ。先ほど考えた【耳クソだったとき用のリアクション】をすぐに出せるようにしておき、左耳を先生に見せる。冷たい器具が耳の中に入ってきた。と同時に、先生が思いもよらないことを言った。

「なんだろう、小さくて丸い、ガラス玉のようなものがある。」

え?

「取れるかな」そう言い、先生が耳の奥に何かを入れる。その何かが、耳の奥に到達し、すかさず抜かれた。先生が銀色のトレーに小さくて丸い、ガラス玉のようなものを乗せた。

「これは何でしょうね」

先生はその正体が何なのかわからず、ガラス玉を目線の高さに持ち上げ見つめていた。私は先生の許可を得てその物体を触った。指先をわずかに押し返すその弾力。完璧な球体。ガラスと見紛うほどの透明感。私には一瞬でその正体がわかった。

「先生、これは無香空間です。」

そう、この小さくて丸いガラス玉の正体は、無香空間という名の消臭ビーズだったのだ。

ペットのいる私の家には、いたるところにこの無香空間が置いてある。本来無香空間の直径は8mmほどあるので耳の中に入ることは無いが、無香空間は使用していくうちに小さくなっていく。

私は日頃から無香空間の透明度、完璧な球体を美しいと思っていた。おそらく、酒を飲みすぎた昨夜の私は、この美しき無香空間を自分の体に取り込みたくなり、思わず耳に入れてしまったのだろう。可愛いものを見ると「食べてしまいたい」と思うように。

先生と私は、しばらくのあいだガラス玉 改め 無香空間を見つめていた。難聴の原因が無香空間だった場合のリアクションは用意していなかったので何も言葉が出てこず、「ありがとうございました。すみませんでした。」と言った。

もうすぐ30歳のいい大人が酒を飲みすぎて無香空間を耳に入れ、仕事を抜けて病院に行ったことを誰かに謝りたかった。ストレスが原因に違いないと思い、休職する方法まで考えたことを許してほしかった。

先生は優しく笑って「なにかあったらまた来てくださいね」と言った。

会計のとき受付の女性が「よかったですね、お大事に」と言った。おそらく、ストレスや重病じゃなくてよかったですね、ということなのだろう。よかった。確かに何事もなくてよかった。よかったんだけど、心配してくれた同僚たちになんて話そうか。

私はお礼を言って病院を後にした。耳の違和感はすっかりなくなっていた。

職場に戻り、同僚たちに正直に話した。耳の中に無香空間が入っていたこと、それは酒を飲みすぎて自分で入れた可能性が高いこと。大変なことにならなくてよかったね、とみんな優しくしてくれた。

たまたま席を外していたTさんも戻ってきたので結果を報告した。いつもは声の小さいTさんが、こちらがビクっとなるくらいの声量で「えぇ!?無香空間をご自分で!?」と言った。驚きと呆れが混ざったTさんの声は私の左耳にしっかり届いた。

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