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犬の呼吸と体温

己はまさしく「母」になるための情性を内包していると察したのは、育ちかけのイヌを腕の中に抱いた時だった。
肺が凍て付く寒さの夜。愛車の中で仔犬を撫でていた。生後4か月のラブラドール・レトリーバーの背中には、ベルベットのようにやわらかい毛と、獣と呼ぶに相応しい硬い毛が混ざって生えていた。異なる手触りの体毛を、てのひらで揉み込むように撫でる。仔犬は、吸うのと吐くのとが同じ長さの規則正しい呼吸を繰り返す。だんだんと、吸う息が長く、吐く息は深くなり、やがて寝息に変わった。
春風が地面の花弁を舞い上げるような音。或いは、程好い緊張から解放されて、思わず歯の間から漏れた溜息のような、かるくて、生ぬるくて、安心感のある音。
ダウンジャケット越しに仔犬の体温が伝わってきた時、腕の中で穏やかに眠るこの幼獣に、その命を預けられているのだと実感した。この世にはまだ、己を傷つける者が存在しないと信じ切った、或いはそれを疑いすらしない、逞しくてしなやかな美しい生物。
あまりの無防備さに、背中をつついて驚かせてやりたいという悪戯心が沸き起こった。ところがにわかにその気が失せた。代わりに確信を得た。さりげなく、しかし、はっきりと。わたしは絶対にこのイヌを誰にも傷つけさせたくない、自立するまで守りたいのだという確信を。

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それが所謂「母性」と呼ばれる感情だと気付いたのは、それからしばらくして、実家で飼っているイヌと再会してからである。
中学生で実家を出てから約14年、帰省の楽しみと言えばもっぱら愛犬らの熱烈なお出迎えであった。居間のドアを開けたわたしの姿を目視すると、歓喜の悲鳴をあげながら千切れんばかりに尻尾を振り、抱いてくれろ撫でてくれろと必死に甘えるシー・ズーとペキニーズの兄弟。離ればなれになった飼い主との再会に感動するあまり、パニックになりかけるイヌを抱き締めながら、世界の何よりも愛しているよ、なかなか会えなくてごめんねと語りかけ、満足するまで撫でて抱き締める――そんなドラマチックな再会劇が、年に二度、三度は繰り広げられていた。

わたしがただそこに存在することを全身で歓ぶイヌの姿に、ヒトから得ることを諦めた無償の愛を得ては心が満たされ、精神を救われてきた。人の世を「有用な人」として生きていくことを選んだわたしには、魂の洗浄のために必要な時間であった。

しかし今回の帰省では、それ得ることは叶わなかった。2年ぶりに再会した愛犬たちはとても衰えて、以前のようにわたしを出迎える体力を失っていたのだ。
半年ちがいで迎えた兄弟は今年で17歳にもなる老犬で、視力も聴力も、おそらく嗅覚さえも老化して、わたしを「長らく会うことができなかった飼い主」として認知するのに時間を要した。
わたしとの再会に先に気付いたのは兄犬の方だった。白内障で淀んだ目を輝かせ、いきむような吐息を溢し、可能な限りの力で尻尾を振る。彼にとって負担のないであろう力で抱き締めると、湿気を含んだモップのようなぼさぼさの毛が頬に触れた。声を出さず、いきむような呼吸で歓喜の感情を表現する兄犬の吐息を耳元で感じると、長時間の運転で強張った肩の力が抜けるのが分かった。

ああ、ようやく、帰ってこられた。
ずいぶんと、時間がかかってしまった。

あたたかい老犬の首元に顔をうずめたら、己の内側の奥深くの、誰にも触れさせたくないやわらかい部分が綻んで、じわりと涙が溢れ出た。

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こんなにも老いてなお、仔犬だった頃と変わらぬ様子で甘える兄犬の背を撫でていると、ふと、数日前抱いた感情と似たそれが沸き起こるのを察知した。この子の望む余生をしあわせに生き、穏やかに死んでくれて良い。すべて、望む通りに叶えてあげて良い。そんな感情が押し寄せるのを感じながら、兄犬の骨ばった身体を存分に抱き締める。
弟犬に邪魔されずに飼い主に甘えられる時間を得た兄犬は、心底しあわせなように見えた。16年も我慢させてしまったね、と語りかけながら、彼が求めるままに全身を撫でまわす。その隣で座り込み虚空を見つめる弟犬は、己の周りで起こっている一切を感知していないようだった。

兄犬が落ち着いた頃合いを見て、弟犬の横に寝そべる。小刻みに震えながら俯いている顔をそっと持ち上げ、目を合わせる。兄犬同様、白内障で淀んだ大きな目には、何も映らない。震えるような呼吸を繰り返し、されるがままにわたしを眺めている。呼吸に合わせて震える背中に手を置いて、やわらかいブラシのような毛並みを撫でていると、弟犬の意識が徐々に覚醒するのが分かった。
ついに弟犬は隣にわたしがいることに気付き、何も映し出していなかった瞳の驚きの感情が浮かんだ。

ようやく、目が合った。

ゴマフアザラシを思わせる大きな瞳で歓びの感情を伝えてくる。その健気さがたまらなく愛おしくて、思わず力加減を忘れて抱き寄せる。寝そべったまま胸元に抱きかかえると、弱々しく尻尾を振っているのが伝わってきた。

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「ただいま。」
喉にはりついて出てこなかった言葉を、ようやく己の耳で聞く。弟犬の耳には、多分聞こえていなかったと思う。いびきのような音で鼻を鳴らし、失いかけている嗅覚を必死に駆使し、2年ぶりの飼い主のにおいを頻りに嗅いでいた。その姿を見て、これがさいごの邂逅になるであろうことを悟った。

荷物を片付けるために寝室に行って戻て来た頃には、兄弟揃って穏やかに眠っていた。17年前から何も変わらぬ寝息。違うことと言えば、病気で臭くなった体臭と、寝ているところを後ろからそっと抱き締めても、静かな寝息を立てたまま目覚めないことだ。
並んで眠る兄弟の間に身を置き、異なる毛触りをそれぞれの手に感じる。これがさいごだと思っても、感情は乱れなかった。以前のように一緒に遊ぶことはできないけれど、そこに流れる穏やかな時間に満たされていた。

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深い眠りについている老犬を眺めていた時、ふいに、そのしぼんだ身体がキラキラ輝いて見えた。同時に、形容し難い感情が溢れ出した。17年を離れた地で共に生きてきて、はじめての感情だった。
老いた兄弟の存在が途轍もなく愛おしくて、可愛くて仕方がなく思えた。
「尊い」という表現が、よく当てはまると感じた。
ぼさぼさの毛に顔をうずめて、兄犬の体温に触れてみる。獣臭い体臭を肺の奥まで吸い込むと、「この生き物を死ぬまで守りたい」と、心の底から強く感じた。それが数日前に愛車の中で仔犬を抱いた時と同じ感情だということは直ぐに分かったが、どんな感情なのかは分からなかった。

「あらまあ、ひさしぶりにお母さんに会えて、しあわせそうだこと!」
わたしと兄弟の様子を見ていた母が、写真を撮りながら笑っていた。

「お母さんって、わたし?」
「当たり前でしょ、あんたの息子でしょ」

母のその言葉を聞いた瞬間、自分の中で、すとん、とはまった。

老いた息子たちの身体をそっと抱き寄せる。今までだったら威嚇しあって喧嘩しそうな距離にいるのに、大人しくわたしを見つめている。
わたしからの愛情を信じて疑わないその瞳を見つめていると、己の中の「母性」と呼ばれる感情が疼くのが良く分かった。

「ただいま、お母さんだよ。」
そう声に出してつぶやいてみると、妙に可笑しくて、笑いそうになる。

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老いた兄弟は大きくてクリクリしたその目を更に丸くして、わたしの顔を覗き込む。その表情が、今更なにを言ってるの、あんたもボケたの?とでも言っているようで、わたしは絶妙な嬉しさと気恥ずかしさを誤魔化すために、大袈裟な声で笑い転げた。

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