見出し画像

境目に咲く

目で見える「あの世」との境目、それが水際。

なぜこんなに惹かれるのだろう、と自分でも不思議に思うくらい、昔から水にまつわるものが好きだった。海、川、池、湖、沼、雨、水族館、水の部首を持つ漢字。まだ義務教育を受ける前、週末ともなると宮城県松島町の「松島水族館」へ遊びに行き、巨大で分厚いガラスの奥に創られた異世界に魅せられた。はじめて書いた卒業アルバムには、将来の夢は水槽を掃除する人になりたいと書いたことも覚えている。

古来、日本では、水は「あの世」のイメージと結びつけられてきた。此岸と彼岸の間には三途の川が流れるとされ、夏の海辺では心霊写真が撮れると噂され、母胎に抱かれたまま生命を終えた子は水子と呼ばれる。
水生生物と陸生生物にとって互いの住む世界は「死んだ後に居られるようになる場所」である。人は、己が生きている間には決して居られないそこに漠然と死の存在を感じ、水際に生死の狭間を見出したのかもしれない。
わたしにとってもそれは同じで、水族館通いをしていた二十数年前から現在に至りずっと、「天国」のイメージは空の上ではなく、深くて暗い、穏やかな水底である。

目で見える「あの世」との境目、それが水際。
そう思っていたのだが、大人になるに連れて、この世にはもっと別の場所にそれがあることを知った。

例えばそれは、病院に。
例えばそれは、住み慣れた部屋に。
例えばそれは、森の中に。
例えばそれは、高層ビルに。
例えばそれは、線路に。

人があの世に誘われる場所。或いは、己の人生の締めくくりに選ぶ場所。あの世へ行く瞬間に見る、この世の境い目。
その境界線を越えるのは、どんな気持ちだろう。そう考えると遣る瀬無くて、いつしかわたしはこうした場所から目を背けるようになっていた。
あんなに好きだったはずの水際さえも。

夏の終わりに、野生のヒガンバナを見に長瀞町へ行った。
まず花が咲き、後から葉が伸びるという、通常の草花とは逆の生態を持つこの花は、花と葉を同時に見ることがないその性質より「葉見ず花見ず」と恐れられ、「死人花」「地獄花」などと呼ばれてきた。日陰に群生するその姿は死や不吉な印象と結び付けられ、贈呈用の花に用いられることは殆どない。

ヒガンバナは、この不吉で美しい花は、思うに己のその美しさを唯一無二の武器として、人間を利用し生き延びてきたのではないだろうか。美しいものにどうしようもなく惹かれ、不浄なものを本能的に厭う人間の性質を。禍々しい美しさで人間の心を癒し、同時に不穏な気持ちを逆撫でして、根付いた地面から刈り獲られることを牽制し、いのちを紡いできた。

その生き様にどうしようもなく心惹かれ、至る所に乱雑に自生する長瀞町のヒガンバナを見つけてはシャッターを切った。
陰に日向に群生する逞しさに心打たれ、その美しい赤を追いかけて歩き回っていると、線路の硬い石塊の間に根付いた一帯を見つけた。
血を連想させる赤い花弁に手を触れると、溜まった朝露が零れ落ちた。わたしにはそれが、「この先」へいった誰かへの涙に見えた。

線路。誰かにとって、一番あの世に近かった境目。
その、「こちら側」に咲く彼岸花。

それは、とても美しい、いつか自分が永遠にいることになる場所からも見える、目印のようで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?