4.2 倫理も法律も宗教も届かないところで僕を見つめて

地元で春祭りが開催された

お祭りに1人で行くのが好きな理由はいくつかあるけれど、1番は、たくさんの人混みのなかで入り混じるいくつもの波の動きを、空気を介して直接感じられるからで、そこが異空間になり得るし、いくつもの世界が混在する中で、私と私以外の立ち位置を把握できてしまう、色そのものを失いたくなる。

ちょうど1年前に同じお祭りに行った時に感じたものは、恐怖だった。そこに居る人間が、誰1人として人間には見えず、何かを失った、5030年と交錯した、大気圏を通過してきた別の生き物たちを見ているような異様な感覚になり、耐えられなくなった。どうしてあの感覚をおぼえたのか今でもわからないけれど、今年は、あの感覚さえ何かの間違いだったかのように、地元のお祭りになんの違和感もなかった。それは私がこの世界と同時進行し重なるように、戻ってきた感覚が目の前の現実とようやく一致したのかもしれないなと、少しだけ安心して、桜の花びらの柔らかさを許すことができた。

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「お祭りって、誰かの生きてる本当の姿を垣間見るような気がする」


ーーーいつも駐車場で清掃をしている正体不明のおばさんが、知らないおじさんと手を繋ぎながら歩いていた。おにぎりには梅干しが合うみたいに、違和感のない2人だった。

ーーー小学生の頃クラスでいじめられて不登校だった女の子が笑いながら、子供を4人連れて歩いていた、隣では男の人がベビーカーを押し、寄り添って歩いていた。10年前に「結婚しました」とFacebookで流れてきた写真の男性とは、別の人だった。

そういえば、大学時代から長く付き合って結婚した友人は子供が生まれて不倫をはじめた。
地元でNo. 1のキャバ嬢だった子は華々しく客と結婚し、もう3年も口を聞いてないらしい。
そして誰よりも、現実世界と噛み合わない自分自身がいる。Instagramではお馴染みの投稿、彼らと見ている世界さえ重ならない。
人生にはきっと、感じるべき時に感じるべき感情があるのだと思う。そこから溢れてしまった人間は、うまく形成されなかった万華鏡から夕立を覗き込むようになる。バラバラのパーツが上手に光を取り込めない。

なにがいいのかわるいのか、もう今となってはわからない。正解も間違いも、勝ち負けも幸も不幸も、早いも遅いも、もう何も無いような気がする。あるのは運命だけで、僕たちは嘆いて笑う感情の浮き沈みだけを手に入れる。

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誰かに見せたい暮らしもない、どう思われるかなんてことも、もう過去に置き去りにした。右スワイプしながら、無価値を眺める無価値。

SUNNY CAR WASHのファンシーという曲を聴きながらお祭りを眺めていた。倫理も法律も宗教もないところへ、何も無いところへ、何もないまま、何もないところで僕を見つめて。ただそれだけが、この世界で最後に辿り着く、全てのように思えた。僕と君だけが、この世界で、かけっこ一等賞だよ。



これは日記です。

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