«都市»に関する覚書
ますます«都市»というのは写真そのものに思えてくる。«都市»の風景は意味を過剰に着込んでいる。というより、風景が«都市»を着込んでいる。イメージが実装されすぎた風景。それが、私にとっては、現代の«都市»なのである。ある種の質量とまで転化した、ゴーストは、憑依した身体を消耗させるに至っている。なるほど、身体はデッドメディア化しつつある、と。
”イメージには優しさが必要である”。傷んだ身体に、イメージが寄り添わなくてはと。そういったある種の”優しさ”をイメージに実装しようとする意志が、エコロジー思想の出自なのかもしれない。SDGsしかり、人新世しかり、脱資本主義しかり。
写真(もうほとんど死語である。ここまで、自由な振る舞いを覚えた写真はメディアそのものと置き換えてもほとんど変わらない)好きの私の関心は、そんな抽象と具象の生々しさが折り合いをつけようとする«個»という無数の定点に向いている。InstagramやTilTokなどのビジュアルテクノロジーによって共有されたイメージソースを実装された«個»。«個»もまた«都市»というマトリョーシカに収まったひとつの小さな«都市»であり、そのイメージの器と化した«個»の振る舞いも«都市»の蓄えるイメージが相関があるはずだ。そんな脳裏にも、目の前の風景にもあるイメージの貯蔵庫が両面から投影されるスクリーンと化した網膜は痙攣状態にあってして、同時に私たちの網膜はイメージ流通のための経路である。言葉を借りればひとつの*器官なのである。
«個»や«都市»を始点と終点と捉えるのではなく、イメージからイメージへの経路と、考えてみてはどうだろうか。都市や人ではなくここではイメージを主語にして語ってみようではないか。
”優しいイメージ”もその経路に参入することを望んでいる。だが、”優しいイメージ”は自らの身を置く場をよく熟慮しなければいけない。政治家という立場が構造上、政治をすることに向いていないように、場所を誤ると”流行りのしぐさ”として消費されてしまい、そのイメージそのものは何ら横断性を持ち得ないアウトプットになってしまうのだから。自らのコンテクストで”垂直に”横断すること。それが、この種のイメージが望んでいることなのだ。
少しだけ話しが逸れてしまうのだが、ひと段落だけ御託を並べてみたいと思う。”横断性”に関して。個人的に、この”横断性”という言葉あるいはしぐさも、消費の対象になりつつあると思っているのである。”横断性”という言葉を私たちに紹介したドゥルーズら現代思想家は、その性質を持ち得るに至ったアウトプットの例を理論と一緒に私たちにも提供してくれた。そのアウトプット(«横断性»という概念も)の特徴は、アウトプットそのものが横断的な振る舞いを覚えているといことだろう。そして最終的には自らのコンテクストで”垂直に”横断するに至っている。だが、実際に現実で散見されるのは、ステレオタイプの横断である。横断したステレオタイプ自体が体制化してしまい、«個»の固有名詞的な振る舞いを、普遍化しようとする力に回収してしまっているのである。普通名詞の内にではなく、隣に固有名詞を設定すること。間違っても、3ヶ月で消費される誇大広告となることがないように。
と、まったく話が逸れてしまったわけなのだが、現代の私たちの中ではなく、20年後の人々の脳裏にあるイメージソースにおいて、優しいイメージがどれだけ昇格しているか。個人の持つ潜在的なイメージの溜まり場に、息長く身を潜めていられるか。。。
« Ghost to Angel », « Image to Image »
キーワード:イメージ、デッドメディア、«都市»、イメージソース