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«イメージのサイボーグ化»

写真はサイボーグ化しつつある。これは、僕がリコー社のデジタル出力機器を目にした時に感じたことだ。テクストの世界で、”僕”という表象は、随分と自己言及的になったのではないだろうか。この呼称を用いるだけで、テクストはナラティブな様相を帯びるのだ。現代において、”写真”という言葉は、それが取り扱う領分の広さに、忙しくしている。かたや、写真というオブジェクトの存在論的定義の修正に、かたや”それを見る”という行為の分解と拡張に。写真という言葉は、溶けかかっている。
その頑健な岩肌は、溶かされ、内在する様相が溢れ出てきたかのようだった。横田大輔氏はオブジェクトとしての写真の存在論的なステータスを物的に提示する。これは、写真との決別なのか、それともこれも写真なのか。彼が溶かすのは、私たちが«写真»に期待する妄信である。私たちは、写真に«期待»を抱き続けてきた。それは、もっぱら写真とは過去の表象の存分なる参照によって成り立つモノだという期待である。だが、彼がここで観せるのは、私たちの網膜にこびりついた過去というフィルターを脱いだ写真の身体である。その«身体»は、イメージを脱ぎさってもなお、そこに現前するひとつの事実である。そこでは、処理によるノイズも、価値基準の束縛からは免れて、中立的な事実としてそこにある。
Starereapによる2.5次元出力は、この«身体»をサイボーグ化する。従来の写真は、やはり”写す”という域からは出られなかったように思う。光の媒介物だったのである。触覚的な質感だろうが、あくまで光や印画紙のメタファーとしてそこにあった。仮にスキャナーであっても、写真に«期待»する写真家の振る舞いを取り込んでいるに過ぎないのではないか。しかし、この2.5次元印刷はイメージの«身体»にも、私たちの肉体と同等のステータスを与えようと。イメージに物質を"彫刻"する力を与えているとは、考えられないだろうか。その«身体»に直に触れることを可能にする。そんな試みの一端なのではないか。
さて。デジタルは、かつては対立項にあったアナログさえもアップデートする。冒頭で、«写真»という言葉は溶けかかっていると言及した。ここまで、イメージが自由な振る舞いを可能になったとき、それはメディアそのものではないかと思ってしまう。写真性とは、この無限に広がりを持ったイメージに対して、どのように創造的な有限性を設定することで成り立っているのだろうか。
(途中)

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