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ぜんぶのぜんぶは、いっぺんに。

 関西から出てきて神奈川県の大学にかよっていた頃、住んでたアパートは坂の途中にありました。その建物は二階の廊下からも橋のようなものが伸びていて、そのまま前の道へ渡ることができます。いや、そこまで珍しい風景というわけでは別にないんですけどなんか、へぇーって感じがするかなーと思って書いてみました。

 ひさしぶりにそれを見にいったらちゃんとまだあったので写真に撮り、ついでにかつての近所を歩いてみると何度も買い物したなーと生活がおもいだされるスーパーや、一度だけ入ったことのある洋食屋が残っていてうれしくなったり、よく借りたり返したりしにいったTSUTAYAがなくなっていて、ほえーと思ったりするものですね。閉店を発表した飲食店なんかで最後にもう一度だけ行っておこうとするお客さんの大行列ができて、これだけの人数が普段からたまにでも来てくれていればなぁと店主が複雑な心境になるみたいに、私もさいきん会えていない友人とさいきん死んじゃった父方のおばあちゃんとを同時に、歩きながら思い浮かべていきました。思い浮かべながら歩いているといつのまにか結構な歩数になってさすがに疲れてきたので地下鉄に乗ります。電車やバスに乗るときに特に思うことがあるんですが、自分以外の人間というのはよくもまあこんなにたくさん居るものですね、そしてさらに驚かされることには、その一人ひとりが別々に自分は自分だけだ、と感じながら、生まれてから私の目にたまたま映っている現在まで自分自身の人生をそれぞれなりに優しく強く経験してきた。そのことに考えがめぐりはじめると明らかに、脳みその容量がソッコーで足りなくなりそうで私は目をつぶりながら頭をぶんぶんと振るそぶりをして思考から逃げてしまうことにしています。

 よくできたドキュメンタリー映画では、そこに映っている人たちは自分がいま撮られているんだということを意識的にせよ無意識的にせよ、充分に感じ取っています。だからまあ自然体ではありつつも鼻をほじったりお尻を搔いたりなんかはあんまりしないわけですが、そうなると劇映画とドキュメンタリー映画のさかいめはもちろん曖昧だということになります。曖昧だ!と思うとき、観客はひそかに興奮しています(私なんかは重要そうなカットでたまたま映り込んでしまっている関係ない虫がしばらく画面内を飛び回っているだけでその一回性に泣きます)。私が考えるにそれは映画が言語をこえる瞬間であり、宇宙旅行者が大気圏を抜けて身体がふわわっとなるのに似ています。

 私も自分で短歌をつくっていると、逆の側から(つまり宇宙から大気圏へ、幻想の側から日常の側へと突入する方向で)、すこしだけそれを感じられる瞬間があります。その一瞬をおもいだして摑まえて閉じ込められたかもしれないとき、友人やおばあちゃんやたくさんの自分以外の存在たちへ向けて、その手のひらのなかをゆっくりとひらいて、お披露目してみたくなるもんです。

誰のっていうかいつでも置いてあり私もたまに履くのサンダル

窪田悠希

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