自然と暮らすという決断。
自然が好きだ。という言葉を耳にすることが多々ある。
僕も少なくないその一員だと思う。
4月から大阪の大都会に住み、自然とはかけ離れた暮らしをした。
どこにでもコンビニはあるし、食べるものも、エンターテイメントも。
いつだって、そこにある。それが大都会。
利便性を求め続けた人たちはすごい街を作ってしまったわけ。
車がなくたって、電車でどこへでも行ける。
便利だな。なんの不自由もない。
そう思いつつも、この利便性に嫌気が差していた。
いつの間にか逃げ出したくなっていた。
何も不自由がない。欲しい時に欲しいものが手に入る。
人間の全ての欲求が誰かの手・商売によって、そこに用意されている。
お金さえあれば、何も困ることはない。
お金さえあれば。
生きる全てを外生化してしまった時に頼れる術はお金。
若い僕たちの多くがお金に換金できる手札は基本的に時間だ。
時間を切り売りして時給としてお金をもらう。
つまり、時間を犠にして、金を稼いで生きていく。
世界で生きているというか、世界に生かされているという感覚に陥った。
そうして逃げたんだ。生きるを実感できる場所に。
10月から富士山の麓での暮らしを始めた。
山小屋みたいな場所。
標高は860メートル。今日は9℃。
まだ10月に入ったばかりだというのに。
ここに来た目的の一つに、
「自然で生きていくとはどういうことか。」
その答えを知りたいというのがあった。
自然と生きていくということは、
自分の手で、足で生きていくということ。
今日は雨。
だから、これをしよう。
今日は寒い。
だから、火を起こそう。
そうやって生きていける場所に身を移した。
僕は周りから見れば変な人間、社会的にも規範とは程遠い。
大学もほとんど行かずじまい。
大阪には起業が正解だと信じている人が多かった。
同じ志を持つ同志として、夢を追いかけるのにはこれ以上ない場所だった。
でも、本当に生業を起こしたい。
そう心から思えているか、がわからなかった。
なぜ、起業したいのか。
その問いかけに答える時には煩わしいものがあった。
本当にやりたいことはなんなのか。
そんなもの、手にとってみないとわからない。
人生は冒険だ。そんなことを言う少年も的を得ている。
僕にしかできないこと。
そんなものはこの世界にあるのだろうか。
最後に
地元で、大阪で。
出会いに感謝を。お礼も言えず、挨拶もできずに出て行ってすみません。
また、そっちに戻る時には。
その時はお互いに今より強い人間になっていることを願って。
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