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ある暴風雨の昼下がりに

 目を覚ました時には、すでに正午を過ぎてしまっていた。昨夜、何とか悪夢の6連勤を終え、久々の休日である今日。どうやらその半日を寝て過ごしてしまったらしい。と言いつつも、予定はなかった上に昨日まで寝る暇もなく働いていた為、これまた久々に纏まった時間寝ることが出来て寧ろ幸福であった。何ならもう少し寝ていても良かったが、耳を澄まさずとも聞こえる程大きな音が家中に響いていて、恐らく私はこの音に目を覚ましてしまったのだろう。……音の正体は、強く吹きつける暴風と、それに付随して打ちつけてくる雨。これは仮に早起きしても、外に出掛けることはなかっただろう。冬にもなって暴風雨とはなかなかついていないが、外に出ないのなら関係ない。私はまだ寝ぼけたまま、亀の如き歩みで台所へ向かう。洗面所ではなくシンクで顔を洗い、そのまま昼にしようと、私は冷蔵庫を開けた。しかしそこにあるのは飲みかけの麦茶だけ。そう言えば、まともに買い物していなかったか。新品の冷蔵庫をただただ見つめ、ガクッと膝を落とす。こうなると腹が途端に空いてくるのが人間の性。必死に台所の戸棚を隅から隅まで探し回るも、目ぼしい食料は見つからない。これはやむなしか。大きく溜め息を吐くと、外套を羽織ってビニール傘を手に取り、大雨降りしきる外へと出ていった。

 最短距離のコンビニへは徒歩でも5分程度で着くが、流石の暴風雨ではその道すらも億劫に感じられた。こうも風に煽られると傘もさしづらく、こんなことなら事前にカップ麺くらいは揃えておくべきだったと後悔の念がよぎってくる。ただそんなことを考えていても仕方がない。帰って昼食にしたらもう1回寝ようなどと考えながら、湿ったアスファルトを踏みつけていると、向かいの歩道にある建物の屋根の下に何かあるのが見えた。見えてしまった。こうなると正体が気になるので、点滅している青信号を走って渡り、その建物に近づく。……そこにはウサギの人形が、横たわって置かれていた。小さな子どもがここで落としたのだろうか、拾い上げてゆっくり回しながらその人形を見る。すると、人形の着ている服にタグがついていて、子どもらしい字で名前と住所が書かれていた。この雨の中、落とし物を届けるのは面倒だし、何より早く昼食にしたい。しかし住所が書かれているものをそう置いたままにしておくのはどうだろうか。幸いにも書かれている住所はコンビニへ向かう道とそうずれてはいない。私はまた、溜め息を吐いた。

 呼び鈴を鳴らす。未だに降り続ける雨のせいで、ちゃんと呼び鈴が鳴ったかは分からなかったが、それは杞憂だったようで、すぐに母親とその娘と思しき女の子が出てきた。ただその女の子が少し暗い顔をしているのは私でも分かる。そして彼女が落とし主で間違いないことも見当がついた。私は「これ、落ちてました」と言ってウサギの人形を差し出す。女の子は人形を見て一瞬ポカンとしていたが、すぐに顔をパァと輝かせ、「ありがとう!」と受け取ると、力強く抱きしめ、頬擦りをした。そしてそのまま、それこそウサギのように元気に飛び回る。母親も驚きの声を上げ、何度も頭を垂れながら、お礼の言葉を言った。その様子を見て安心と疲れが同時に押し寄せ、母親に「良かったです」と軽く声だけかけ、その場を後にしようとすると……、
「おねぇちゃん、ありがとうっていわれたときは、えがおでどういたしましてっていうんだよ」
少々生意気な言葉に母親が「すみませんっ」と慌てて謝る。ただその女の子に悪い気はなさそうで、それをそのままにするのもいけないと、「そうだったね、どういたしまして」と返した。しかしそれでも、女の子は膨れ面のまま。あれ、何が違うことでもしただろうか、私は女の子に目線を合わせたまま首を傾げる。「あれ、何か違ってた?」と女の子にひと声。すると女の子は、

「えがおっ! えがおっ!」

「えっ?」私は返した。笑顔で言ったつもりだったし、何なら人形を渡す時から笑顔で接していたつもりだった。しかし、女の子の目にはそうは映ってはいなかったらしい。いや、きっとそうだったのだろう。確かに私は最近、心の底から笑えるようなことはなかった気がする。だからこそ女の子はそう言ったのかもしれない。私は呆然とした。こんな小さい子に見透かされるなんてとも思った。でも、そんな事よりも、ひとつ大事なことを自分が忘れていたような、そんな気持ちに支配された。

 私は「ありがとう」とだけ言って女の子の元を後にした。女の子と母親は首を傾げていたが、今私に言えるのはその言葉だけな気がする。……外はまだ風が強く吹いている。が、しかし雨は止んでいた。