20200523 恋愛と統計

 恋愛工学や、恋愛のための統計データをとって議論している人にとって、恋愛の第一歩とは「不特定多数にモテること」なのだと感じる。
 戦略の一つとしてその手段は確かに存在する。恋人を作る準備として、好みのタイプというものを強く持っているなら、そのタイプの人が多く属する集団に近づき、集団の好意を獲得することが、おそらく恋人を効率的に獲得する第一歩にはなるだろう。お金持ちや有名人と結婚したい、高学歴と結婚したい、美男美女と結婚したい、家事が得意な人と結婚したい、同じ趣味の人と結婚したい、であれば、比較的その戦略は行使しやすい。まずはそのタイプが多く所属する集団に近づき、集団からの好意を獲得しながら、対象を絞っていけばよい。プロ彼女と言われる人々が、いい例である。反対に、優しい人と結婚したい、自分を立ててくれる人と結婚したい、真面目な人と結婚したい、家族を大切にする人と結婚したい、のであれば、そのような人が多く所属するであろう特定の集団を探すことは難しい。自分が所属する集団内で探してみることが一番の近道だが、そこにいなければ別の集団に近づきそのタイプの人間を探してみることになる。

 恋愛の戦略の一つとして男女双方が使っている手段であるのに、なぜ上記のように明文化すると炎上の対象になってしまうのか。

 「モテる」とは個人によって解釈が分かれており、「不特定多数に好意を抱かれる」から「自分の意中の人に好意を向けられる」まである。すもも氏の言う非モテは、恋愛経験が少なく恋人がずっといない人を指すようなので、「不特定多数に好意を抱かれない」人たちを指しているように思う。
 恋人がほしいのにも関わらず、一人も恋愛経験がないということは、恋愛戦略として、所属している集団や近づきたい集団が間違っているか、もしくは所属する集団に好みのタイプが存在していても、行動に移していないか、もしくは好意を抱かれずに終わっているか、なのだと思う。
 ここで考えられる次の行動は、好意を抱いてもらうために「対象にとっての自分の価値を変える」か「対象自体を変える(別の人を好きになる)」か、である。「自分の価値を変える」は、多くの人が実践してきたような、外観を変えて性格を変えるなどいわゆる自分磨きが王道だが、自己がムーブメントとなり、自分の外観や性格を変えずして対象の価値観を変えることも可能性としてはある。氏の考え方は、後者に近く、対象(ここでは女性一般)に対して働きかけ、非モテの価値を高めようと努力する方向に進んでいる。非モテの価値というのは変な表現だが、いわゆる非モテが所属しているタイプ、低所得、低学歴、コミュ障、などの価値観を変えようという意味である。個人的に、氏の手段は少々荒っぽいと思う(非モテについて、彼らのいいところを発信するのではなく、女性一般に向けて、彼女らのもつ価値観が道徳的に間違っており、改善すべきと糾弾している)が、価値を変えてもらう、という方向は間違っていないように思う。

 炎上させている人たちはどうだろうか。「ライトオタク女子がおすすめ」の一言は、確かに私にも違和感を持った。が、統計の結果そう言えますよ、そしてそれをタイトルにしますよ、というのは情報を要約する過程でよく目にする。納豆がダイエットに効果的、とか、毎日りんご一個食べれば医者いらず、など、少々言い過ぎの感のある統計の要約とそれに伴うブログタイトルは、注目を集めるため、PVを増やすためにとる常套手段だ。
 反応を見ていて、「統計は個人を見ていない」ことを理解しない人が多く存在することに気づく。トッド・ローズの『平均思考は捨てなさい』にもあるように、統計は我々の集団の平均を一般的モデルとして差し出し、誰にも当てはまらない「平均像」を作り出す。複雑な統計の結果は、厳密に言えば「誰でもない」のである。集団の中で、7割の人に納豆やりんごの効果があっても、残り3割は一般的な傾向から除外されてしまう。内容を精査しなければ自分にも当てはまるかはわからない段階で、自分にも当てはまると錯覚する。
 今回はとくに、「ライトオタク女子」というカテゴリ名が悪かった。人はみな、何かのオタクなのである。中野腐女子シスターズを見てほしい。きゃんさんはアニメオタクだが、スザンヌさんは健康オタクなのである。田舎娘や地方住まい女子と違って、ライトオタク女子は名前としてあてははまる人間が多すぎたので、引っかかる人間が多い。前述のとおり、分析された因子を見ずに自分のことを指されている!と多くの人間が錯覚する。カテゴリ分けの際には、クライテリア(田舎/都会、地方/都心、オタク/無趣味、アニメ好き/アニメ見ない、など分断する視点)、相互背反、集合網羅を意識してカテゴリ名をつけていただきたいと思う。
 (カテゴリというのは厄介で、個性の尊重や無個性が叫ばれる現代では、どうしても自分を形成する前に、カテゴリに所属する人を見て、自分もこのカテゴリに所属したい、と自分を曲げがちである。この辺の話はまた書く気力があるときにメモしておきたい。)

 さて、私個人の感覚として、統計は実際の恋愛にあまり役に立たない。唯一役に立つのは、集団へ近づくときだ。前述したような、あるタイプの人と近づきたいが所属している集団がわからないときに指標になる。ライトオタク集団には優しい人が統計学的に多い、健康オタク集団には快活な人が多い、など(ほとんどは偏見で、n=1000でも十分かはわからない)。ここでそのカテゴリの集団に嫁候補を探しによく知らない男が押しかけてくる、という行為が「非モテが攻撃してくる!」という妄想を生むのではなかろうか。加害される偏見はもちろんある。女性一般は、男性の中に女性に嫌悪している人がいるのをネット経験上よく知っているし、「非モテ」の得体が知れないからだ(現に非モテの見方であるすももちゃんが、女性一般に攻撃的なのだ)。世の中変な人は思ったより多い。よくわからんが男女ともに自衛はきちんとしよう。
 恋愛に限らず、統計の結果として、カテゴリとして人を見続けるのは危険だ。人付き合いの第一歩として、この人はこのタイプだから好きだ、から始まってもいい。が、個人を見ずに「このタイプの人なのだから、このように行動するだろう/すべきだ」と思い込んでいると、すぐに喧嘩になって別れる。無理やり付き合おうとしたところで人付き合いは続かない。恋愛の中で、または将来一緒の時間を過ごしたいのであれば、一番重要な局面はその個人と一対一で向き合う時なのに、軽視されがちだ。この人は何が好きなのか、どんな考えを持って生きているのか。対して自分は一人の人間としてどうか、敬意をもって相手に接しているか。男女の違いではなく、誰にでも言えることである。
 カテゴリから好きになる、が生じる原因として「身近に好きな人ができない」人が多いからだ、とも思う。原因はよくわからない。本能的に人を好きになる、とは、セックスがしたいことから始まるのか。はたまた仲間探しなのか。他人とたやすく友達になれる人は恋人を作れるような気がしている。周囲の誰かを好きになることができる人は、自分は恵まれていたと思おう。結婚とか子育てとか、そんな世の中の価値観に流されて、無理やり人を好きになろうと、結婚しようとしている人も多い。そんな人ができる最初の一歩が、結婚相談所しかり、恋愛の統計しかり、カテゴリで人を探すことなのだ。

 私は自分の周囲の人を好きになることができた。昔からだ。同じ家で育ったきょうだいは、それができない。出会った環境と、個人の性格だ。もちろん人を好きになることができても順風満帆なわけがなく、離婚した経験もある。個人と向き合った結果、一緒に住むことができないと判断したからだ。


 恋愛をするなら、恋人がほしいなら、一緒に一生住んでくれる人を探したいなら、個人を尊重しよう、プロセスはどうあれ、個人と真正面から付き合おう。この報告してきた人が、うまく彼女と向き合えていることを願うばかりである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?