心の「土壌」を耕すこと

 昔から「友達が多いね」と言われる機会が多かったように思う。実際、廊下を歩けば会話が始まる機会が多かった。学生時代はそんな自分を少し恥ずかしく思ったものだ。

 「友達が多いね」と声をかけられるたびに「付き合いが広く浅い人なのね」と、自分の存在の軽さを指摘されている気分になった。

 私だけが感じていることかもしれないが、どうもこの国は「広く浅い」よりも「狭く深い」を好む人が多いように思う。「狭く深い」何かに向き合う人の方が誠実な人だと捉えられるからだろうか。実際、そうなのかもしれないが。いずれにせよ「広く浅い」というのは良い意味では使われてこなかったように思う。

 歳を重ねるにつれ、今まで以上に様々な方面へ好奇心を持った。でもそれは「広く浅い」と人との繋がりのおかげかもしれない。

 主人のおかげで大河ドラマの面白さを知った。友人のおかげで柚子胡椒の美味しさを知った。たまたま電車で隣になった人との会話のおかげで自分の住む街の歴史を知った。大河ドラマをもっと観たいと思った。柚子胡椒に1番合う食べ物を知りたいと思った。週末にはこの街の歴史を噛み締めながら散歩をしようと思った。

 様々な人との繋がりがあったから、自分の人生は退屈しなかったのだと思う。きっとたくさんの人との出会いがあったからこそ、傷ついたことや悩んだこともあったと思う。しかしそれ以上に自分のまだ見ぬ「好奇心」を知った。

 「深さ」や「浅さ」は他人が測るものではないと、私は思っている。誰がなんと言おうと、小さな好奇心の種が自分の心に蒔かれ、芽が出たのなら、それだけで大きな収穫である。そこから大きな花が咲くこともあるし、そのまま枯れることもあるだろう。しかし、大切なことは「何が咲いたか」でなく、「たくさんの種を蒔ける土があるのか」なのではないかと思う。

 皆さんは今、人生で1番多感な時期にあることと思う。(無論、それは人それぞれであるし、私は常に「今」が1番多感だとだと思っている)どんな花を咲かせるか、どれの花を咲かせるか。きっと多くの場面でその花を大切に育て、大きくするように教わることだろう。

 しかし当たり前のことであるが、土がなければ種を蒔いても芽は出ない。花を咲かせることに頭をいっぱいにして、中々出ない芽に心を傷つけることはひとつもないことを肝に銘じておいてほしい。

 土となる自分の「好奇心」を常に耕し、日常至る所に転がるさまざまな種に目を向けられる心の余裕をもつと、きっと今以上に人生が華やぐのではないだろうか。

 皆さんにとって実りのある3年間となりますように。

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