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令和6年能登半島地震を受けて

お久しぶりです、yukaです。

多少の被害はあったものの、なんとが無事です。
少しずつ、元の生活に戻れつつあります。
新年はじめのnoteですが、今後の自分自身の記憶のためにも、被災当時の記録を残しておこうと思います。

2024年1月1日(月)、私と家族は富山の自宅(マンション3階部分)にいました。
この日は夕方頃に私と2歳の子どもは市外の祖父母邸へ、配偶者(夫)は長野の実家へ帰省する予定でした。

私は自室で確定申告に向けての準備、子どもは和室で寝ていました。
子どもが寝ていたこともあり、テレビは消していました。

午後4時頃。
配偶者(夫)がたまたま暇になったらしく、テレビを付けました。
「どうせ見ないんだから消しておけばいいのに・・・」
そんなことを思いながらキッチンにコップを取りに行ったその時。

突然、緊急地震速報(1回目)が流れました。

すぐに子どもが寝ている和室に行き、子どもに覆いかぶさるように守っていました。
1回目の地震では、身体で感じる揺れはあったものの、物が落ちるということはありませんでした。

それから間もなく、また緊急地震速報が流れました。

先ほどの揺れとは違い、徐々に大きな揺れがきて、飾ってあった木彫り彫刻や、テレビが傾き、神棚や書類、本が落ちました。

何度も何度も緊急地震速報が流れていたので、正直何回目であの大きな揺れがあったのかわかりません。

その時には子どもも起きていて、守るのに必死でした。
飼っている文鳥の放鳥中だったので、驚いてどこかの隙間に入り込んでしまいました。

揺れがおさまってからすぐに避難動線の確保をし、玄関にある靴を子どもに履かせました。
文鳥の居場所も「だいたいこの辺に飛んでいったよな・・・」という記憶をたよりに探したら、物と物の間に隠れておびえていました。

自分たち親は交互に避難グッズを手元に準備。
その際自室に行くと、机の上がびしょ濡れ。
確定申告用の重要書類や、PC、手帳なども濡れてしまい、ひどい有様でした。(拭くことなんて後回しなので、そのままにした結果、後日使えなくなるものが多々・・・)

そして、再びリビングに集合。
テレビの速報をきいていたら・・・

「津波警報!津波警報!テレビなんか見ていないで、今すぐ避難!」

幸い、私たちが居住しているところは海や川からは距離があり、部屋は3階部分ということもあり、津波の心配はありませんでした。

ただ、今まで感じたことのない揺れで、軽いものは落ちて散乱していました。その時は「地震が恐い」というよりも「家族全員の安全確保」ということで頭がいっぱいでした。

それからどうすることもできず、避難グッズを準備したまま・・・
「どうする?避難所行く?」
「でも津波警報出てるから、高いところにいた方がいいんじゃ・・・」
「停電もしてないしね。」
「みんなで長野に逃げる?」

子どもも、じっとしているのに飽きてきたようで、(よりにもよって)床におもちゃをばらまいたり、落ち着きがなくなったりしていました。
もうどうしたらいいのか、わからなくなっていました。

とりあえず、通信手段も遮断されていないようだったので、家族LINEに「無事」の文字だけ送りました。
すると別居している家族(父母、妹弟)から連絡があり、彼らは大型ショッピングモールにいるとのことでした。

「ここに逃げてくる人と、出ようとする人とでごった返してるよ。」
「駐車場にいたんだけど、ものすごく揺れてびっくりした。」

配偶者(夫)は長野の実家の様子を聞いたところ、長野もかなり揺れたとのことでした。

「みんなで長野に逃げようかと相談中なんだけど・・・」
そういうと、お義母さんが「高速道路、使えないと思うよ。もうすでに通行止めのところもある。今日はやめときな。」

その言葉でハッとしました。
ここ富山から長野へ行く高速道路の道は、途中糸魚川・親不知(新潟)を経由するのですが、あのあたりは海が近いのです。

その後、妹から再度連絡があり、祖父母邸も揺れはしたものの、全員無事とのことでした。

うちのマンションよりも祖父母邸の方が、能登に近い方(県西側)なのですが、たまたま地盤がかなり固いところに建っているらしく・・・

できるだけ人手は多い方がいいということと、かたまって過ごした方がいいと判断し、私たち家族は市外の祖父母邸へ避難することにしました。

車で移動するにしても、途中で渋滞や道の状態によっては立ち往生もありえる・・・移動中にどんなことが起こってもいいように、車中泊することも想定して荷物を詰め込みました。

いつもより慎重に、道の状態を確認しながら走っていると・・・

コンビニ、県管理の大きな公園、ガソリンスタンドには既にたくさんの車が。
みんな、避難したり、食料を調達したり、給油を行っていたんだと思います。

そうしてなんとか祖父母邸に別居中の家族も全員集合し、暖を取ることができ、そのまま一週間ほど過ごしました。

ただ、氷見(能登地域に近い)に住んでいる親戚邸は断水し、何度も給水に来ていました。

新年早々、大変なことが起こり、後になって不安に襲われています。
一週間以上経った今も何度も揺れています。
(9日18時前には新潟側が震源の揺れでもかなり揺れましたし、記事を書いている本日11日も、揺れを感じました。)

幸い、子どもは小さく、まだわからないのか、不安はないようです。
むしろ「少し大きい子の方が、子どもが不安がってトイレに行けなくなった(by.ママ友)」と言っていました。

幼少期を関西(大阪・兵庫)で過ごしたこともあり、地震に対する教育を受ける機会が多かったように思います。
富山は「自然災害は立山が守ってくれる」という謎の"立山信仰"があるのです。そのため、「自然災害に対する意識が薄いな」と感じることがよくありました。

今回、今までの人生の中で一番大きな揺れを経験したことで、あらためて「防災意識を高めておかないといけない」と思いました。

特に子どもが小さいうちは、服やオムツのサイズが頻繁に変わってくるので、その度に避難用の衣服などもつめかえないといけません。

たまたま家族全員自宅にいましたが、例えばそれぞれの職場で家族がバラバラだった場合、近場での買い物中、帰省中、旅行中など、様々なシーンが考えられます。
その時、まず命を守ること。
避難生活は体験せずに済みましたが、いざという時の行動・避難グッズを見直す必要があると感じました。

子どももわかるようになってきたら、少しずつ防災教育をしていこうと思いました。


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