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続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史②~

前回「続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史①~」の続きです。

・かいつまみ方その①のまとめ

 さて、これ以上は際限がないのでここまでにしておきます。先ほど読んだ『エチカ』第一部の冒頭、これだけでもかなり見えてくる景色が変わってくると思いませんか?確かに、「アリストテレスは存在を10のカテゴリーにわけて~」とか「デカルトの心身二元論は身体と精神を異なる実体として~」という説明はよく聞きますし、一次文献を参照せずとも知識として知っている人は多いかと思います。ですが、直接哲学者たちの著作にあたることによって、そしてテクストの言葉を理解しようとすることによって、そうした知識が自分の中で生きた哲学的思考になるのではないのでしょうか。

 さて、こうして哲学史の古典を自ら直接振り返ることによって、たとえば神が唯一の実体でありその他はすべて様態であるという、『エチカ』においてよく知られるあの「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられない」(『エチカ』第一部定理15)というあのテーゼがいかに法外であったか、そして同時代人にとってどれだけ衝撃的であったかを、わずかでも窺い知ることができるのではないのでしょうか。

 しかしそれでも、「こんな文脈丸無視で都合のいいところだけ読んでしまって良いのだろうか」という疑念がまだありますか?もちろん、答えから言うと、駄目なんです。ですが、趣味で哲学を研究するのに、通読前提で挫折してしまっては元も子もないです。確かに、こうした読みが誤解や誤読を招きかねないことは大いに認めます。しかし、通読したところでそれが回避できるわけではありませんし、誤解や誤読を恐れては何も読めません、間違えればその都度改めれば良いのです。重要なのは、自分の知を固定せずにアップデートしていく意識を常に持っていることではないでしょうか。それに、前回のnoteでも言いましたが、そうやっていくうちに徐々に読んでいる箇所が増えていって、気づけば一冊通読していたり、読書量が増えていたりするものです。また、二次文献などはそうした自分の知のアップデートのためにあると言っても良いでしょう。

 今回は成り行き上、スピノザ以前の時代の哲学者がメインになりましたが、要は他の哲学者の議論を参照することによって専門とする哲学者の言説を相対化する、ということが主な目論見だと思いますので、歴史的な影響関係という視点はあれど、時代が前か後かはそこまで気にしなくともよいと思います。

 また、訳語が安定していないため、用語によってはしらみつぶしがしにくい場合があります。その場合は、哲学辞典か何かを利用して原語を調べるのが良いでしょう。原語がわかれば、インターネットなどを利用してどのような訳語があるのかそれなりに調べることはできます。たとえばデカルトのrealitas objectiva(英:objective reality)はデカルト界隈では「表象的実在性」と訳されることが多いのですが、レヴィナスを読んでいると「客観的実在性」と訳されていたりします(カント以前と以後ではobjectiveの意味が違うためか)。これだと邦訳だけではデカルトとレヴィナスが用語において一致することに大変気が付きにくいため、気になる用語は必ず原語チェックしましょう。このため、外国語ができなくても、専門とする哲学者の原書はしっかり持っておくことをお勧めします。章や段落がわかれば、外国語はおぼろげでも、原語のチェック自体は割と楽にできます(ラテン文字であれば…)。

―かいつまみ方その①補足:知識の広げ方

 かいつまみ方その①の「用語しらみつぶし作戦」は今言ったように進めていきましょう。ここで補足しておきたいことは「①自分のよく知らない哲学者についてまでリサーチを広げたいとき」と「②初学者ではルーツを辿るのが難しい用語の調べ方(今回の例で言えば自己原因)」に関して若干触れておきたいと思います。簡単に言えば「誰が一番わかりやすく説明できるか選手権大会」のメンバー選抜方法です。結論から言いますと、どちらも「二次文献に頼るのが最もよし」です。

・①に関して

 よく知らない哲学者を知ろうとするならこれはもう、哲学史の本を読むのが一番良いです。これはやはり『哲学の歴史』シリーズがド定番ですが、全部揃えるのはしんどいので、家においておく用としては熊野純彦さんの『西洋哲学史』などがいいかもしれません。こういう哲学史の本を読むと、たとえば、スアレスという哲学者が「様態的区別」の議論をデカルトに先んじてすでにやっていることを知ったりして、じゃあ様態って言葉をしらみつぶしに調べてみようというときにスアレスをリストアップしたりできるわけです。また、名前はよく知っているけど、どの著作からリサーチしたらいいかわからない、という哲学者でも入門書や概説書が有用ですね。たとえば上記の実践例で僕は迷うことなくアリストテレスの『形而上学』から『カテゴリー論』に進みましたが、初学者のなかではうまくいかないという人もいるかもしれません。そういう時、図書館に行ってアリストテレス全集を片っ端から目を通すというのも、非常に楽しくて僕は大好きなんですが(「文献は自分の足で探す」が僕のモットーですと言ったら、「どこの刑事だよ」と突っ込まれたことがあります)、アリストテレスの入門書や概説書、哲学史の本などを読んで著作概説などに目を通すのも良いと思います。

 また、さらに突っ込んでリサーチ対象を広げたい場合は、海外の文献を参照してみるのもオススメです。例えば、Bloomsbury Companion to Spinozaは、スピノザに影響を及ぼした哲学者や、それぞれの用語が何に由来するかなどを網羅的に提示しており、そのうえ現代にいたるまでの研究史の要約まであります。ここまで内容が充実しているレファレンスは国内ではそうそうありません。読みたい本がバリ増えますし、語学学習のモチベーションアップにも繋がります。

・②に関して

 哲学辞典などを使うのもありですがなかなか載っていない用語も少なくありません。Google検索や論文検索サイトの「cinii」を使いましょう。例えば「スピノザ 自己原因」でもいいですし、「哲学 自己原因」でもなんでもよいです。そうするといくつか論文が出てくるので、それを参照します。機関リポジトリでいくつかの論文は読めますし、タイトルから「これは読まねば!」という論文もわかります(だから「●●における△△について」なんてタイトルの論文がどれほどありがたいかわかりますよね)。今回の「自己原因」に関してですと、たとえば松田克進さんの「〈自己原因〉論争の「目撃者」としてのスピノザ」という論文が出てきますので、これはタイトルからしてスピノザと同時代の哲学史に関わるものだということがわかりますよね。スピノザ協会発行の『スピノザーナ』に掲載された論文ですが、『近代哲学史点描』という本にも所収されています。絶版であれば、図書館でコピーをとったりしましょう。これを実際に読んでみると、たとえばデカルトの『省察』の「反論と答弁」においてカテルスやアルノーと論争していたことがわかります(『近代哲学史点描』、139~145頁)。これで『省察』の「反論と答弁」をリサーチ対象に含めることが出来ます。また、参考文献にジャン=リュック・マリオン「類比と理由律との狭間に―『自己原因』の問題」が挙げられていて、松田さんによると、この論文はアンセルムスからスアレスまで要約しているので(同上、146頁)、この論文が入手できればさらにリサーチ対象は広がりそうですよね。このように、一つの論文から、また別の参考文献へ移っていくのは、かなり効果的な手法です。

かいつまみ方その②:トピックで参照してみる

 これも実際にやってみることで示してみましょう。まず、スピノザは第四部定理72及びその備考で次のようなことを言っています(証明は省略します)。

 「定理72 自由の人は決して詐りの行動をせず常に信義をもって行動する」。
 「備考 ここに次のような問いがなされるかもしれぬ。もし人間が背信によって現在の死の危機から救われうるとしたらどうであろう。その場合、自己の有の維持をたてまえとする理性は無条件で人間に背信的であるように教えるのではないかと。これに対しては上にならって次のような答えがなされるであろう。もし理性がそうしたことを教えるとしたら理性はそれをすべての人々に教えることになる。したがって理性は一般に人々に、相互の協力および共通の法律の遵守への約束を、常に詐って結ぶように教えることになる。言いかえれば結局共通の法律を有しないように教えることになる。しかしこれは不条理である」。

「自由の人」というのは「理性の導きに従って生活する人」です。そういう人は嘘をつかないよね、という定理ですね。証明は、コナトゥス(いわゆる自己保存の努力)を基礎として証明されているのですが、備考では「自己保存の努力から嘘をつかないのだとしたら、命と引き換えにだったら嘘つくかもじゃん」という反論に対して「それOKだったら理性はすべての人に共通なんだしすべての人に嘘を言うように教えるから、法律とか成立しないよね?」という補足になっています。

 これだけ見ると「かいつまみ方①」の冒頭で紹介した「『エチカ』第一部わからーん!」って感覚よりはまだ「うんうんなるほど」で終わりそうな話ですが、今度のかいつまみ方は「トピックで考える」です。単なる「なるほど」から次のステップに進むために、他に「嘘をついてはいけない」ということに関して議論している哲学者を見つけて、スピノザの議論を相対化してみようということですね。

 「嘘をついてはいけない」なんて議論している哲学者、思いつきますか?う~んそんな哲学者、心当たりがないなぁ。でも大丈夫、今日びヤフーでググればなんでも出てきます。「哲学 嘘をついてはいけない」とかで検索してみればオッケーです。…なんと!あの高名な哲学者、カントの名前が出てきました!これは美味しい!金脈を掘り当てた気分です。さあ、では早速彼の議論を参照してみましょう。ネット上の記事や論文によると、『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』、「人間愛に基づいて嘘をつくという、誤って思い込まれた権利」の中で議論しているようです。短くて読みやすそうな『人倫の形而上学の基礎づけ』からリサーチしてみましょう。

 索引がついていない本を読むときや、トピックで探すときは索引を使っても見つけにくい場合があります。その際は、電話帳を探すようにパラパラと眺めていきましょう。ある特定の文字列でフィルターをかけた、読まない速読くらいのスピードでオッケーです。…あ!ありました!

 「しかしながら、いつわりの約束をすることが義務にかなうかどうかという問題の解答についてこの上なく手短な、しかしまちがいのないやり方で明らかに知るために、私はこう自問する。私は私の格率〔いつわりの約束により困惑を脱するがよいという格率〕がひとつの一般的法則として〔私にとっても他人にとっても〕妥当するという場合に、それで実際満足できるであろうかと。(中略)そこで私は直ちに気付く、私は嘘をつくことを意志することはできるが、嘘をつくようにとの普遍的法則を意志することは全くできないということを。というのは、そういう法則に従えば、そもそも約束というものが存在しなくなるからである。なぜなら、私の未来の行為に関して私の意志を他人に申し立てることが無益で在って、他人はそういう私の申し立てを信用しないか、あるいは早まって信用したとしても必ず私に対して同じ仕打ちでしかえしをするかであり、したがって私の格率は、一般的法則とされるや否や、自己自身を破壊せざるをえないからである」(カント『プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ』、野田又夫訳、中公クラシックス、256頁)。

「もし「嘘をついてもよい」なんてものが普遍的法則としてまかり通ったら、あらゆる約束が無効になってしまって、結局は自己破壊的になってしまうよね」という議論になっていました。流石カント、素晴らしく合理的な説明です…ん?これってスピノザの議論とそっくりじゃん!

 至福に到達するために自らの徳=力能を増大させる、いわゆる徳倫理のスピノザ、定言的に道徳法則の命令に従うべきであるとする義務論のカント、自由意志を否定するスピノザ、道徳の原理を導出するために自由意志を前提するカント、な~んて言い方をすれば「正反対の哲学者だよね」と簡単に言えてしまうのですが、通常対立していると考えられている哲学者同士でも細部によってはこれほどまで酷似しているケースは多々あります。確かに、スピノザの倫理は徳倫理だーなんて言われることも多々ありますが、義務論的な普遍的規範みたいなものに片足突っ込んでいるし、義務論のカントだーなんてのもよく言われますが、その普遍性を導出する際「自己破壊」なんかにも言及しているんですねーちゃんと読んでみると。ううむ、それにしても、細部によっては、これほどまでに酷似しているのにも関わらず、なぜ大局的に見れば正反対に見えてしまうのか…、いやいや、細部が似ていると感じるのは単に同じような議論をしているからであって、本当はその細部ももっと解像度を上げて細かく見れば、推論の順番や仕方が異なっていたり、あるいはスピノザ側から見れば「自己保存の努力」や「自由」、カント側から見れば「意志」とか「格率」とかの概念において決定的な違いがあったりして、両者の倫理学を支えている土台の仕組みはまったく異なるのかも…、などなど。あれ?すでにめっちゃ哲学、してませんか?このことについて論じている論文、あるなら読んでみたくなりません?

 このようにして、スピノザの倫理を、カントの倫理という参照軸を用いることによって、きわめて構造的に、あるいは体系的に分析・理解するヒントが見えてきたりします。自分が専門とする哲学者と、同じトピックについて扱っている哲学者を参照してみると、思いがけない新しい観点や論点が見つかったり、あるいは自分の専門に立ち戻った時にまた新しい景色が見えたりして、そういった勉強から哲学者たちが歴史的に一体何をどう問題としてきたか、が見えてきたりするわけですね。

 この手法は一見限定的な手法に見えますが、「自由意志」「無限」「生命」「社会契約」「主体」など、哲学においてよく扱われているトピックというのは間違いなく存在していて、そのどれも全部論じてないよっていう哲学者は恐らくいません(用語がそのままトピックになってたりするケースであれば、手法①と併用したりもできます)。

また、よくあるトピックでなはなくとも、たとえばホッブズは議会政治において小さな会議体を提案しているのに対して(『リヴァイアサン』第25章)、スピノザは大きな会議体を提案している(『国家論』第7章第4節、第8章第3~4節)という事例があったりして、そうした両者の政治哲学を比較を通して、ホッブズが「社会契約」、スピノザが「群衆の力能」に基礎をおいていることなども考察していくと、より彼らの政治哲学の体系的でより深い理解を推し進めるうえで非常に面白いです。自分の専門とする哲学者が一体どういったトピックを論じているのかと考えることは、結局は「この人はいったい何を問題にしているのか/問題意識は何か」という視点を持つことであり、その哲学者を理解するためにも非常に重要です。

続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史③~」へ続きます。

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