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続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史③~

前回「続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史①~」、前々回「続・趣味ではじめる哲学研究~趣味で調べる哲学史②~」の続きです。

かいつまみ方その③:常にかいつまミストとしての意識を持つ

 ①②は、自分の専門とする哲学者からどう足場を広げていくか、あるいは自分の専門とする哲学者を読み解いていくための、哲学史の勉強の仕方が中心でした。しかし、ただ単純に哲学史の知識を身に着けたいという人もいると思います。そういう人にオススメなのが、「普段の読書から自身がかいつまミストという意識を持って読む」です。あるいは、読む本を選ぶときに、かいつまみ情報が多そうな本を積極的に選ぶなどもこの手法に入ります。

今回も例を上げて実践してみましょう。中村敏子さんの『女性差別はどう作られてきたか』という本を取り上げます。タイトルからすると、一見哲学史とは関係のなさそうな本ですが、中村さんはホッブズと福沢諭吉を専門とする政治学者で、この本ではホッブズのテクストを、家父長制という角度から読み解いていくという、非常に高度なテクスト批評が実践されています。中村さんによると次の通りです。

 「もうひとつの「欲情」により成立した男女関係は、永続的なものではなく一時的な関係です。なぜなら「自然状態」で人間はまったく自由に生きており、結婚という制度がないため、男女は関係を結んだ後すぐに別れてしまうからです。しかし、しばらくして子どもが生まれることがあります。この時、子どもの父親はもうそこにいないので、必然的に子どもは母の手に任され、母が乳を与えることで子どもの生命を持続させます。もし母が子に乳を与えなければ、子どもは死ぬことになるでしょう。それは母の意志次第なのです。それゆえ闘争状態の勝者同様、母はこの時、子どもの生命を左右できる力を持っているので、子どもに対する権力、つまり「母権」を持つことになるとホッブズは論じました」(65頁)。

これを踏まえて中村さんは、通常「母権」について初めて議論をしたのは1861年刊行バッハオーフェンの『母権論』だとされているが、そのバッハオーフェンにおいてですら、最終的には父権制が勝利したということを評価しているのだから、17世紀におけるホッブズのこの議論がいかに規格外だったか、ということを指摘しています(65~66頁)。

 普段の読書ならここで「ほへ~」となって、「ふっ、また一つ賢くなってしまった…」で終わりそうなところですが、ホッブズがいかに母権論を議論したのか原典を直接参照したい、しなきゃやだもん!ホッブズ先生とお話させて!!と、かいつまミストはそこまでいきます(かいつまミストは基本面倒くせえ奴です)。さあ、それでは『リヴァイアサン』を開きましょう(今回は岩波を参照しますが、光文社古典新訳文庫にはkindleもあるので、そちらですと検索もかけられます)。早速目次をチェックしていきます。するとほら、第二十章「父権的および専制的支配について」と、まあドンピシャリな章がありました。さっそく読んでいきますが、今回も関連する場所だけでいいです。第二十章をいきなりロジックを追いながら丸々全部読むのはしんどいですからね。目的の議論が見つかるまで目を滑らすようにして読みましょう。

 「そして、ある人びとは、男の方がすぐれた性だからといって、支配を男だけに帰属させたが、しかし、そのさい、彼らは計算ちがいをしている。なぜなら、男女のあいだには、権利が戦争なしに決定されうるほどの、強さや慎慮のちがいが、かならずしもありはしないからである」(ホッブズ『リヴァイアサン』二巻、水田洋訳、岩波文庫、72頁)。
 「もし契約がなければ、支配は母にある。なぜなら、結婚の諸法がないまったくの自然状態においては、だれが父であるかは、母によって宣告されないかぎり、知られえないからである。だから、子供に対する支配の権利は、彼女の意志に依存し、したがって彼女のものである。さらに、未成年者が、まず母の力のもとにあって、母はそれを教育することも遺棄することもできる、という点からすると、もし彼女がそれを養育すれば、それは自分の生命を母におうのであり、したがって、他のだれに対してよりも、彼女にしたがうことを義務づけられる。そしてその帰結として、それに対する支配は、彼女のものである」(同上、73頁)。

どうでしょう?ホッブズ自身のラディカルな思考、論理に直に触れることによって、中村さんの著書を読むことで得られた「ホッブズは17世紀の時代に母権論を扱った凄い人」という知識が、息を吹き込まれて、自分の中でより生き生きとした思考になったと思いません?もちろん、中村さんの著作でも、引用したように丁寧にホッブズの論理が紹介されているので、そのラディカルさはいささかも失われてはいません。ですが、一次文献を参照することによって、ある読書体験から得られた知識が、一つの歴史的な事実認識の域を越えて、私たちのなかで生きた哲学的思考になるのではないでしょうか。そして、中村さんは『女性差別はどう作られてきた』のなかで

 「このようにホッブズは、当時のすべての人が前提としていた神を除外して社会を構想しました。その中で男女が対等に生まれると考え、それぞれの持つ肉体的特徴を権力の起源として認めました。そして、結婚関係においても合意によって男女が共同権力を持つ可能性を示したのです。彼は、西洋の伝統の中で作られた女性をめぐる差別の構造から完全に自由でした。その意味で、ホッブズは真に革命的だったと言えるでしょう」(75頁)。

と述べているのですが、中村さんの言っていることは一次文献のどういうところをパラフレーズしているのか、どの辺の議論が革命的だったのか、などなど、中村さんの読解を手掛かりにしながらホッブズを読むことによって、教科書的知識を越えた、生の哲学史的知識を得ることができるのです。まるで、中村さんの著書が、ホッブズの母権論に関する講義の、入場券になっているような気分です。そこからまた、ホッブズの母権論を理解するために、彼の権力論に立ち戻ってみたり、またはそれを支えている理論的枠組みを考えるために別の箇所を参照したり…と、母権論からのかいつまみを足掛かりにして、ホッブズの著作により深く分け入っていくことも可能になってくるのです。

おわりに

 以上が、僕なりにおすすめできる哲学史の勉強の仕方です。というか、ほぼほぼ僕がいつもやっているやり方です。いかがでしょう。積読されている方々は、すでにいくつか積んでいる本の中でかいつまめそうな本が見つかったりしたのではないでしょうか。こういう時のために積読があるんですよね。過去の自分からの贈り物として、ありがたく読ませて頂きましょう。

 哲学の勉強の方法は決して限られたものではありません。万人にオススメできる、万人に合った方法とは存在しません。ですが、手掛かりがまったくないよりは、他人のやり方でも知っておくことは損はないのでは、と思います。すでに勉強法を確立している人でも、他人のやり方が気になる、なんて人もいるでしょう。その辺のことが動機で、今回の記事を書きました。

 あと、最後に是非オススメしておきた方法として、①~③の方法でかいつまんだ文章は、ワードファイルなどに書き写しておいて、すぐに参照したり、どのテクストで言っているかすぐにわかるようにしておくことです。自分向けのアンソロジーを編む感じですね。そうしておくと自分用のレファレンスとして凄く便利です。今回の記事で引用した文章もほとんどが、僕のワードファイルのなかにもともとあったものでした。また、これまでの実践例を見て、「あなたはこんなスラスラ要約しとうけど、そもそもそういう風に意味をとって読むのが難しいとって!」と思われる方もいるかもしれませんが、確かに文章を読むと、スラスラ要約しているように見えますが、僕もこれを書いているときはウンウン唸りながら「どう書いたらわかりやすいかな…」とか「この文の要点はどこかなぁ…」と考えながらパラフレーズしていました。ですので、要約というのは「自分で誰かに説明してみるつもりで要約する」ということを実践すればできるようになったりします。「人は教えることによってもっともよく学ぶ」なんて言葉もありますし、実際に教える人がいなくても、そのつもりで、ワードファイルにまとめながら自分なりの簡単な説明を付け加えてみると、更に理解が広がり、哲学史への理解、ないしは自分が対象とする文献への理解も広がるように思います。

 しかし、ここに書いてあることは、ある一方ではインスタントなやり方に見えて、しかし一方で、いちいち一次文献に遡ってチェックするような、非常に煩わしく、時間のかかる手法に見えるかも知れません。少なくとも、「××という哲学者は△△ということを主張した」という即効性のある知識が効率よく身につくような勉強法ではないことは確かです。

 これに対する解答の一つとして、「そもそも哲学とは時間のかかる学問である」と僕は考えます。何もこれは哲学に限ったことではないのかもしれませんが、考えると、たとえば大学の哲学コースに入学して、卒業論文を書くのに、講義や演習などの専門的な教育を受けたとしても、四年もかかるのです。もちろんみんながみんな卒論を書きたくて哲学を勉強しているわけではないでしょうが、一つのまとまった知識として醸成するにはそれくらいの時間がかかるということではないでしょうか。即効性のある知識を身に着けてどんどん難解な哲学書を読み解いていきたい気持ちも確かにありますが、哲学書を読む力というのはすぐには身に付きません。読む範囲を限定する。そこを足場に少しずつ知識を広げていく。地道が一番の近道なのです。常に三年先、四年先を見据えた勉強をしたいものです。

 最後に、ホッブズの母権論を紹介する際に少しほのめかしましたが、哲学史(history of philosophy)の知識とは、歴史(history)の教科書に書いてある知識とは徹底的に違います。それは「それ自体が哲学である」という点です。たとえば科学史の知識は、それ自体が科学ではあり得ませんが、哲学史に関してはそれ自体が哲学であり得ます。今回の記事でそれが少しでも追体験して頂けたらな~と思っています。このことに関してバーナード・ウィリアムズは『デカルト』という著作のなかで次のように言っています。「思想史(history of ideas)」の作業においては、後世の視点を決して持ち込まずに、デカルトの著作が一体「何を意味していたのか(what did it mean?)」を、時間的に水平的に、当時の文脈に即しながら再構成しなければならない、ウィリアムズ自身の例えによると、17世紀の楽譜を、17世紀の楽器を用いて、構成しなければならないと言っています。しかし、彼は思想史を明確に「哲学史history of philosophy」と区別します。哲学史も、もちろん真面目に歴史的なタームを使って研究するのは思想史と同様ですが、哲学史研究においてデカルトの思想の再構成は決定的に現代的なスタイルでされています。現代的な議論、現代的な合理性によって対象を研究していく、とすると、このような再構成もまた、研究対象と同じジャンル、すなわち「哲学」に属する、ということです(pp.9~10)。

 自分自身の関心や問題意識を抱えて、哲学の一次文献にあたり、哲学史的な知識を身に着けていくということは、ウィリアムズにならえば、それ自体が哲学であると言えるでしょう。哲学史を勉強している時、すでに哲学研究をしているんですね。そういえば、知識というと英語でknowledgeですが、これには認識という意味もありました。

 また、一次文献を参照することの重要性を繰り返し主張していますが、当然の如くこの記事は二次文献です。本記事で扱っているテクストのなかで、少しでも関心が動かされたものがあれば、まずは一次文献にあたることを同様にお勧めします。

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