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安楽死について(雑感・続々)

先に、自己決定権の観点から感じたことを書き留めてみたが、さらに考察してみたい。

自己決定権は、「個人が公権力の干渉や介入なしに私的事項を決定できる自由」であり、論者により考え方は様々であるものの、日本の最高裁においても是認されている。根拠としては、憲法13条の幸福追求権の一環として位置付けられるだろう。

死んでしまっては幸福追求ができなくなるのではないか、というものでもない。いかに生きるかだけでなく、いかに死ぬかも、自己決定権という中では十分に尊重されなければならない、というのが理論的帰結になるだろう。

こういう死に方をしたい、という自己決定やその実現に当たり、自分だけではできない、ということも出てくる。現在、問題となっているALS患者の嘱託殺人事件は、そういう場合に当たるだろう。報道によれば、当該患者はスイスで安楽死したいと検討したが、関係者によるスイスへの搬送が日本刑法上の自殺幇助罪に該当する恐れがあるので断念したとのことである。

そういう、自己決定権の行使、実現自体が、権利行使として是認されるのに、それを手助けする行為が、一律に違法とされることで、自己決定権の行使、実現が不可能、困難になってしまう。これはおかしくないか。是認されている権利行使を手助けする行為も、相当な範囲で適法としなければ、自己決定権が認められながら行使できない、という矛盾したことになってしまう。自殺、という自己決定においては、生命という法益は、そもそも、その主体によって放棄されているのである。そういうことをしてはいけない、生命を大切にというのは、あくまで「他人の」判断であり、それを、生命主体の本人に強制できない、自己決定に委ねるというのが自己決定権の本質である。

前の投稿でも述べたように、違法性(ここでの違法性は刑法上の違法性を念頭に置いている)は、法益侵害に尽きるものではなく、その危険性や規範違反(その社会において是認されたもので、倫理、道徳も排除できない)も考慮されるべき、というのが、現在の我が国における通説であり裁判実務でも是認されているものだろう。ただ、「医師なのに医療行為を逸脱している」「金をもらっている」「主治医でもないのに」といった、自己決定権を捨象した、倫理、道徳的なアプローチ一辺倒では、この問題に永遠に解答は出てこない。確かに、生命はかけがえのないものであり、自殺はないほうが良い。しかし、自己の生命をいかに処置するか、いかに生きるかだけでなくいかに死ぬかを決める、自己決定権を有しているのは、当該生命の主体である本人であり、その権利は十分に尊重、保護されなければならないのである。

自分は法律家の端くれであるが、この問題に対して、こういった法的なアプローチのみが絶対的なものであるとは思わない。いろいろなアプローチがあって然るべきだと思う。ただ、現在、嘱託殺人事件として問われようとしているのは刑事責任であり、そこが肯定される状況下では、遺族による損害賠償請求(民事責任)も問題になり得るだろう。被疑者らは医師であり、今後、医師免許の取消や業務停止も問題なってくるだろう(行政処分で問われる責任)。その意味では、法的に何がどこまで許され、どこから許されないかという、厳密な考察、判断を避けて通ることはできないだろうと考えている。

以上



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