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4/3②『いつもワードに書いているような文章を載せた』

 緩やかに、交わしていくように生きていきたい。

 そのはずなのに、どうしてか私は自分から軋轢を作りに行ってしまうような行動ばかりとってしまう。相手を敵とみなして、攻撃し、反撃されやられる。そういうことばかり繰り返してしまう。

 周りは敵じゃない。味方でもないかもしれないけれど、敵ではない可能性が高い。頭ではわかっているのに、脳内で勝手に他人が攻撃してくる。これはきっと頭の中で自分が自分を責めているだけだ。自分に対する期待値が高いから(プライドが高いともいうのかもしれない)、それに届いていない自分を責める。で、どうしてかそこで自分が自分を責めるというものではなく、他者が自分を責めているという構図に変換されてしまう。

 他者は味方でも敵でもない。他者は他者だ。そんなあたりまえのことにさえ気づければ、私の人生は大きく変わっていく。
 これでも少しは変わった方だ。前はこの脳内変換がよく行われていたせいで、実際に敵ばかり作ったものだった。コミュニティから追放されたりしたこともあった。幸いなことに周りの人が優しい人が多かったから、いまでもずっと続いているコミュニティも多い。これは幸運なことだ。自分でつかみ取ったものではない。でも、運も実力のうちというのならば、これは私が勝ち取った幸運だ。

 他者は他者で、自分の人生にさほど関心はない。他者もまた、自分自身のことばかりを考えて生きている。そんなことは言い古されているが、しかし、なかなか身体の芯にまで響かない。なかなか納得ができていない。
 それは他者の存在が圧倒的すぎるからだろう。目の前に人間がいると、本当の意味で圧倒される。ただそこにいるということの意味が、あまりにも大きすぎる。何もしない、何も言わない、それだけでも存在している。むしろ何もしない、何も言わないからこそ存在感が大きくなるということさえある。関わらないということが一種の関りにすらなっている。同じ空間にいるということはそういうことだ。同じコミュニティに属しているということはそういうことだ。人間の存在はすごい。暴力的だと思う。それは他者にとって自分がそうであるということでもある。私は何も考えていなくても、他者にとっては存在しているだけで暴力となりえる。

 あるいは、存在していなくても存在しているということがありえる。私たちは一人でいるときも、誰かを思い浮かべる。思い浮かべて、何かを想像する。そのことが、もうその人を存在させる。その人に脳内で勝手に何かをさせる、言わせる、表情を浮かばせる、そのことは、目の前にそこにその人がいること以上の存在感になることがたたある。

 そんな暴力的でどうしようもない人間が集まれば、問題が起きるのはあたりまえのことだと思う。むしろ、人はよく社会的になっていて、どんどん暴力的なことは減っている。少なくとも表面的な、わかりやすい暴力は昔に比べてかなり減ったのだろう。それがいいことかどうかはわからない。要は排除する際の手際が巧妙になっているだけだからだ。排除する側は排除しているという意識もなく、ただ所定の手続きを淡々と行うだけだ。排除された側は恨みを持つかもしれないが、しかし、だいたいの場合は排除された側に問題があるとされる。しかし、排除された側がそのことに気づくことはない。俺は不当に排除された、そう思うだけだ。

 もっとわかりやすい言葉で、あるいは暴力で伝えられたら、本当はもっとわかりやすいのかもしれない。でも、それは時代が許さなくなった。だから緩やかに、たとえば発達障害だから、などといった理由で排除が行われる。もちろんはっきりとそんなことも言わずに、でも周りの健常者からは暗黙の了解で、排除は速やかに行われる。

 なんてことを書いて、いまでは私自身もたまにだれかを排除してしまうことがあることに気づく。もちろん私にそんな権限はないのだけれど、排除を行うときの一員になることがある。
 誰かが明らかに集団に迷惑をかけている、そういうときに誰ともなくその人を排除する動きがはじまる。私はそれに同調するでもなく、反対するでもなく、ただその行為を見守る。
 その人が変化することを期待することはむずかしい。変化する場合も確かにあるが、それには長い年月がかかる。そもそも年月をかけても変わらないことだって多い。悪化することだってあるだろう。何かを指摘すると、反発が必ずある。それによって悪化することはよくあることだ。
 そもそも長い年月を周りのみんなが耐えるのは大変なことだ。そんなことをする義理はない。だから排除する動きになる。反対する人もいるかもしれないが、結局は迷惑の方が上回るので、速やかにいなくなる。そういうことがいろんなところで起こる。私だってそういうことに加担してきた。
 
 もちろん自分だっていつ排除される側に回るのか、わからない。とりあえずいまはある程度の信頼関係があるところにいるが、しかし、それは思っている以上に脆いのかもしれない。信頼関係というのは見えない。私が思っている関係性と、誰かが思っている関係性は、必ず一致することはない。互いにちぐはぐになっており、そこの乖離が大きくなると、破綻する。

 人間関係っていうのはむずかしい。みんなと仲良くしたいなんて思うけど、それは無理だ。そもそも私が親しい人間関係を築けるようになったのは、ここ一、二年の話でしかない。25歳まではひきこもりで誰ともほとんど会わなかったし、会うようになってからの三年はかなり失敗ばかりしてきた。傷ついてきたし、たくさんの人を傷つけてきた。これからもそれはきっとそうだろう。でも、少しずつうまくやっていけるようになるしかない。実際、うまくなってきてはいる。

 最近は空間を作ることに興味を覚えている。空間というと変な感じだが、自分が快適な居場所を作りたいという感情だろうか。自分が好きだと思える人が集まって、その人たちがのびのびと過ごせる場所を提供したい。そう思う。だからいつか店とかを開きたいと思うこともある。それがカフェなのかバーなのか本屋なのかわからない。なんだっていいと思っている。それがいかに難しいかもなんとなくは知ってる。売上的にもそうだし、売り上げ以外のこともそうだ。そもそも空間を操作することはむずかしい。かなりの高等技術だ。
 
 それでもやりたいと思う。もちろんいきなり店をはじめるわけにはいかないから、たとえばいまは一日限定の店長ができるお店などがあるから、そういうところでいつかやれたらなあと思う。そう思っているから、とりあえずそのお店に遊びに行きたいと思っている。具体的には福岡のエデンだ。今週の日曜日に体調がよかったら行きたい。いまだに自分の体調が読めず、躁鬱という言い訳もあるのだが、なかなか未来の予定に確信が持てないところが悔しいところだ。
 エデンなどもツイッターとかで見ている限り楽しそうなところもあれば、たまになんか大変そうなところも見たりする。それぜんぶ含めて魅力的なところだと思っている。もし今週の日曜日に行ける人がいたら福岡のエデンで会いましょう。

 こうして適当に長い文章を書いているのは、普段からいつもこうして思いついたままにワードに書いていることを、できるだけ人が読んでも問題ないように書こうとしているからで、別に特別なことではない。なんとなくつぶやきで、私の特技は一日にだいたい一万字くらいの文章は難なく書けるくらいかなあと書いたからで、それを証明したいからだ。
 長い文章は書けるけど、それは別に読むに堪えうる文章が書けるというわけではない。そもそもが個人的な文章を自分の心理的な整理のために書いている、というだけである。それを人前に読んでもらえる程度に書くとこんな感じになる、という具合だ(ちなみに、読んでもらえる程度というのはクオリティの話ではなくて、個人情報とかをできるだけ書かないようにするという意味だ。普段ワードに書くときは、個人名とか、いろいろ知られたらまずいこともどんどん書いてしまうから、それをなくすように書いている)。
 
 空間について書いた。そして人間関係について。自分の人生を振り返ると、一、二年で確かにフェーズが変わってきたな、と感じる。
 たとえば二年前は、そもそもの人間関係の構築がまだまだ下手だった。どのくらい下手だったかというと、ようやく挨拶ができるようになったけどまだ雑談はほとんどできないくらいに下手だった。いや、挨拶もできていたかあやしいくらいだった。だから嫌われることも多かったし、自分自身から積極的に話しかけることもほとんどなかった。
 それをなんとか一年間いろいろ体験して繰り返して、恋人といろいろ関係を築いていったり、あるいは友達と飲みにいったり遊んだり、喧嘩をしたり仲直りをしたりを繰り返してようやくそれなりになった。
 そしてここ一年くらいはまた違うフェーズになっていて、より円滑に多くの人間と関係を持てるようになるか、という課題に向き合ってきた。たとえばそれは労働にしたってそうなのだが、私は30年生きてきてはじめてといっていい労働を去年はしていたのだが、そこでの人間関係の経験も大きい。職場での人間関係と、普段のプライベートでの人間関係は大きく違ったりする。いろいろな場所での人間関係を経験して、職場では焼き肉をおごってもらったりして、そのときのかわいい後輩のやり方とかを学んだりした。もちろんまだあんまりかわいくなかったんだけど、かわいげがあるように努力するということをはじめてした。そういうことすらすべてはじめての経験だった。いまとなっては懐かしさすら覚える。
 
 スラムの人と会ったのも去年だった。そもそもスラムに入ったのが去年で、10月にたまたま東京に行く機会があったから、そこで四人の方とお会いした。いや、バー「かみな」にたまたま行けることになったから、本当はもっと多くの人に会っているのだろう。でもあんまりそこでのことは覚えていない。なんか大学生ばっかりいて、めっちゃ自分が浮いていたことは覚えている。さいきん「かみな」のアカウントを見ると楽しそうで、またいつか行けたらいいなあと思っている。相互フォローがそのときまで続いていればいいのだけれど。
 
 スラムの人たちは個性的でおもしろかった。ひとりひとりのことは書けないが、なんかみんなおもしろかった、魅力的だった、なんて雑に振り返ってしまう。もしかしたら一般的な社会では少し生き辛さを抱えてる人もいるのかもしれないけど、みんな逞しくてやさしいなって思った。長崎からきた田舎者を歌舞伎町に案内してくれた。いい経験だったな。

 だんだんと話がそれてきた。そんな感じで一年前からはいろんな人に会い、いろんな人との経験を積んできた。それは刹那的ともいえるかもしれないが、私の人生にさまざまな彩を与えてくれた。頻繁に会うことはできないかもしれないけれど、その人との関係が確かにあるというだけで、どこか心強くなる。そしてこうして文章を書くと読んでくれたり反応をくれたりする。そういう人がどこか遠くにでもいるということがいまの私を支えている。そういう人間関係を作れたのはスラムのおかげだった。

 そして今年一年のあたらしいフェーズ。それはいったいなんだろう。たぶん身近な人の関係をより大切に、そしてたくさんに会い、自分が心地の良い人間になっていく、いわゆる「いいやつ」になっていく、ということなんだろうが、それだけでは今までとあまり変わっていない気もする。でも、なんとなく人間関係の作り方というか、私自身が人とのかかわり方を変えていく必要性も感じている。

 かかわり方を変えるというよりは、ある意味で「原点」に戻るということをしなければいけない気がしている。たとえば、ちゃんと挨拶をしようとか。よく笑おうとか。大切な相手にプレゼントを贈ろうとか。そういうことだ。そういう小さな、でもあたりまえでありつつ誰もがすべてはやれていないことをしっかりやっていく。二年前よりはできていると過信してしまっているところを、本当にちゃんとできているのか、もっとやれるんじゃないかと点検していく作業が必要だ。

 あとは、それらのことを呼吸をするようにできるようになる、という必要性がある。つまりやろうとしてやるには限界があるということだ。人は忘れる生き物だし、ついサボってしまいたくなる生き物だ。疲れると特にそうで、挨拶だって雑になるし、周りに対する態度は自分で気づかなくてもそっけないものになったりする。だから、自然にどうやって自分をいい状態に、つまりは健康にできるかをもっと探らないといけない。

 健康というテーマはとてもむずかしい。いちばんは睡眠だ。私は寝ることが不得意だ。鬱になると過眠になるが、しかし躁状態か、あるいは普通のときでも、だいたいかなりのショートスリーパーになる。3時間から、長くて5時間しか眠れなくなる。しかも一度にそれくらい眠れるのではなく、何度も起きてようやく5時間眠れるという感じだ。たぶんこれのせいでなかなか体力が夕方くらいまで持たなかったりする。
 あとは食事だろうか。私はイライラすると過食してしまう。だから体重は90キロ台だ。これでもやや落ちてきていて、2年前は110キロあった。しかし身体が重いというのはきっとそれだけでストレスになっている。重たい身体を必死に動かして、それで疲れてしまっている。怪我をするリスクも高いし、いいことは本当に一つもない。過食をしたあとの後悔は何事にも例えられないような、よくない感覚がある。

 だから私は自分を健康な状態にもっていくことがなかなかできていない。だから気分にかなりムラがある。これは双極性障害と診断されているという言い訳もあるのだが、しかし、それにしても自分でもっと気分を保つことはできるはずだ。それがなかなかできていない。だから人に当たりが強いときがある。親しい間柄の人にはすぐ私的される。「今日はちくちく言葉だね」なんて冗談のように言ってくれてありがたい。私はそう言われてはじめて気づくことができる。自分の欠点の一つとして、自分の状態がよくわかっていないということがある。いま自分が調子が良いのか、悪いのか、それさえもわからない。ついに倒れるというときになって、「ああ、自分は体調が悪かったんだな。そういえば今日は2時間しか眠れていなかったな」なんて振り返るときがよくある。まずは自分のことを知ることからはじまる。健康云々はそのあとだ。

 長い文章を書くと最初を見失ってしまう。文章を書いていたらいろいろ中断してやらなければいけないことがあるから、いま二時間ぶりくらいに文章を打ち込んでいるが、しかし、いったいなにを書いていたか忘れてしまった。読み返す気力もない。私は自分の文章を読み返すことが好きではない。たまにお気に入りの文章もあるけれど、ほとんどはどうでもいいことだ。文章は書くことに意味がある。書いているという行為に意味がある。内容は本当のところどうでもいいのだ。書いているときに考えていること、書いているときに何かを忘れること、そういうことが大切だと思っている。

 
 人との関係もいろいろ忘れてしまう。たとえば今日さっき話していた人と、いったい何の話をしていたかなんてほとんど忘れてしまっている。それでもそのときの感情は以外と忘れないものだ。いや、それさえも記憶はいつしか妄想に変わっていくのだろうか。
 人との会話をいちいち覚えていても仕方がない。そもそも人との関係は、会話だけではないからだ。その言葉を言ったときの表情や声色、あるいはそのとき漂っている匂い、そういったものの方が大切だ。言葉は、とにかく余計なことはいわないほうがいい。余計なことを言って挽回ができる人などそうはいない。だいたい余計なことを言う人は気かきかないから、気が利いたことはいえない。

 そういうことは最近わかってきたはずなのに、最近の私は少し言葉が強くなっている。それも親しい人間に強くなることが多い。もちろんすぐに気づいて修正はするのだけれど、少し気が抜けているのかもしれない。それか、季節の変わり目で気分が崩れてしまっているからそうなりがちなのか。わからないが、言葉は、何を言うかではなくて何を言わないかが大切だ。言葉を聞いて感動することなどない。あったとしたら、それはその前段階がいい感じだったのだ。要は物語の問題だ。物語次第では、どんな陳腐な言葉でも輝くのだ。

 人間関係は物語だ。その人とどういう物語を作るか。それに尽きる。どういう物語を共有するか。どう共犯関係になるか。一方通行ではいけない。どんな形でも共犯に持ち込まなければいけない。そうしなければ、愛も憎悪も生まれないだろう。
 そういう意味では物語を作るというのは小説家みたいな作業を二人でするということだ。お互い違う意思を持ちながら、それでも妥協点を見つける作業を二人でしていく。それが二人の関係性なんだろう。

 書いたりすることと、話すことの違いは、形に残るか残らないかだろう。書き言葉は基本的に残ってしまう。自分自身が消しても、相手が残してる場合もある。動かぬ証拠となってしまう。話し言葉は、録音でもされない限りは残らない。されることは基本的にはないだろうから、残らないと思っていい。でも、残らないからいいというわけではないのだろう。要は、捏造されやすいのだ。二人が互いに違う記憶の捏造をしていくから、そこで齟齬が生まれてしまう。それは関係性を壊してしまう要因になってしまう。そこは人間関係のおもしろいところでもあり、むずかしいところでもある。
 
 人のことはわからない。自分のこともわからない。わからないことだらけだ。わからない同士で会話しようとしたら、それはわからないことになる。だから礼儀みたいなのが大事になる。こういう行為をしたらこういう意味になるという、ある程度決まったものがある方が、コミュニケーションがうまくいく。私は子どもの頃はずっと挨拶の意味さえわからなかった。なんでこんな礼儀にうるさい人が多いんだろう、と思ってしまっていたが、礼儀なんてものは私みたいなコミュ障の人間のためにこそあるのだろう。いまではそう思う。しかしそのことに気づくまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。

 喧嘩をしてまででも、私たちは人と群れたいと思う。どんなに傷ついても、それでも近づきたいと思う。何度後悔しても、何度同じことを繰り返しても、今度こそは……と思う。真実の愛なんてものを求めているわけではない。そういうわけではないし、友愛なんてものを信じているわけではない。愛なんて便利な言葉に逃げるわけではない。でも、それなら私たちはいったい何を求めて近づくのだろうか。

 他者。不思議だと思う。顔を見るときっと何かを思っている、考えているのだろうなとこちらは思う。でも本当は何も考えていないのかもしれない。私はよくそういうことがある。人の顔をぼけっと見て、何も考えていない、何も感じていないことがある。それでも他者から見れば、それは怖いことだ。人は存在するだけで怖い。前にも書いたことだ。存在という怖さ。存在の軽さ、そして重さ。うっとうしいこの存在。でもかけがえのない、この存在。まったく意味がわからない、なんでこんな存在が存在しているのか、わからない。

 レヴィナスだったか、人の顔を見ることは、「殺すな!」という命令を下している、みたいなことを言っていた、もしかしたら間違っているかもしれない、私はほとんどレヴィナスなんて読んだことがない、でもそんなことを言っている、ということを別の本で読んだことがある気がする。私はその感覚はまったくわからないが、しかし人間の圧倒的な存在はわかる。

 人が人である条件はなんだろう。動物とは違う、らしい。動物の定義すら私にはわからないけれど、人間には人間の特有さがある。猫を見ても私は緊張しない。むしろ緩和してしまう。猫ほど相手を緩和させる動物もいない。少なくとも私にとってはそうだ。猫。かわいい代表格とされている猫。かわいい若い女の子にも勝てる唯一の猫。人間じゃなくて猫に生まれればよかったのか。

 私は高校生のときに実家に急に猫がやってきたのだが、それまで猫と触れ合ったことがない人生だったから、すごくそのときは緊張したことを覚えている。要は慣れなのか。それでも、人間に慣れることはない。どれだけ長い時間を過ごした人間に対しても、どこか緊張感がある。舐めきることができない。信用がおけない。

 猫は攻撃してくる。それもたかが知れてるから、私たちは猫に対して警戒しないで済むのか。もちろんそれもあるだろう。でもそれだけでもない気がする。あのかわいさ。愚かさ。賢さ。のんびりさ。緩慢さ。しなやかさ。そのすべてが私たちを癒してくれる。
 
 人間と猫の対比。斎藤環が確か、『猫はどうして二次元に唯一対抗できるのか』みたいなタイトルの本をかいてた。読んではない。タイトルも正確には違うだろう。それくらいでも猫は一般的にも特別視されている。ツイッターのアイコンを猫にしているヤツはヤバいみたいな言説もあった。あれはなんだったんだろう。確かにヤバい人が多かった印象はある。猫。猫に擬態したい人間は、ろくでもないのか。

 人間との関係を書くなら、人間以外との関係も書くべきなのかもしれない。たとえば、人間と自然との付き合い方。そういうことを考えていったら、また人間との関係について深く知れるのかもしれない。そんなことも思った。

 なんか人に見せるように一万字をかこうとすると、統一性をある程度持たせようとしてしまっていることに気づいた。もっと思いついたままに書いている。それはただの記録だ。文章とも言えないのかもしれない。だから私は別に文章を書いていないし、書けていない。ただ適当に思いついた言葉を並べているだけだ。でも、それで自分の治療になっている。自分の治療のためにやっていることを人に見せようとするとおかしなことになるのかもしれない。なんだか、今日はこの文章を書いていて書いている気がしない。いつもの自己治療が果たせていない。自分のことを知れない。あたらしさがない。いつもの癖を、つぎはぎしているだけだ。

 書く。そうすると次の文章が生まれる。それを続けるだけだった。本当はそれでよかった。全体のことなんて考えるはずがない。一冊の本だなんて、ちゃんちゃらおかしい話だ。あれはそうとうに不自然なことをしている。一つのアルバムだって、いろんな曲が入っていて、ほとんど統一性などないのに、本はどうしてか短編集ですらけっこう統一性があったりする。そういう生真面目さが私は嫌いなんだ。もっと適当でいい。もっと適当に書け。もっと適当に読め。誤字脱字も気にするな。誰かに何を言われても自分が思うように書けばいい。そう書いている私はもう本当に何かに縛られている。

 読むように書き、書くように読む。なんてくだらない言葉だ。そんな言葉があるのかも知らないが。きっとあるんだろう。そういう言葉を聞いたことがある。でも、書くのは書くで、読むのは読むだ。あたりまえのことだ。書くときはなにも考えないことがポイントで、読むときはなにも考えないことがポイントだ。文字は考えるためにあるんじゃない。文字は勝手に生み出されるものだ。排泄だ。トイレだ。これはトイレで排泄しているにすぎない。それが肥料になる。それだけの話だ。

 排泄という行為はもっと語られるべきなんじゃないかと思う。スカトロの話とは少し違う。排泄だ。毎日のように私たちは排泄をしている。それだけでおかしくなる。お手洗いに行く。なんて言葉は本当に滑稽で、私たちは下着を脱ぎ、尿だとか糞をまき散らす。そんなことばかりしている。そんなことばかりしている人間がプライドを持って争うのだからわけがわからない。みんな排泄している。ビバ・排泄。

 文章の最後が排泄になってしまった。そんなことを気にしている時点で負けなのだが。これは勝ち負けか? そもそも本当に誰かが読むのか? どうでもいいことだ。どうでもいいことを気にする。人間はどうでもいいことしか気にしない。そういう生き物だ。人間関係で悩んでいるということは、つまり、人間はどうでもいいことで悩んでいるということだ。
 
 私たちはだれも理解できない。自分のことだって理解できない。私はあなたのことがわからない。わかりたいと思うことはある。わかりたいとさえ思わないこともある。あなただって私のことはわからない。そもそも存在を知らないかもしれない。それでいい。それでいいけれど、どうやら私たちは同じ時代に生まれてきている。だからこの文章で出会っている。もうすでに出会ってしまっている。だから、一緒に生きていかなければいけない。一度も会わないとしても、一緒に生きていく。理解もできないのに生きていく。不思議だ。笑える話だ。一緒に笑い合おうか? 理解できなくても、笑い合える。理解できないことを、笑い合える。

 わかりあえないあなたと、一緒に生きていけることが喜びになること。苦しみにもなること。憎しみにもなること。楽しみにもなること。いろんな感情があって、それらすべてが正しくて、正しくなくて、等しく私たちはすぐ死んで、またあたらしい命が生まれて、そしてまた同じようなことを繰り返して、いつかすべてが絶滅する。それでいい。それでいいとしか言いようがない。愛している。愛していないけど、愛していると言いたい。誰かもわからないあなたを、好きだと言いたい。憎しみ合うことになるとしても、愛し合う気持ちが少しでもあったことはここで表明して、この文章を終わりにする。愛している。
 

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