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4/26 『あの子の美しさと醜さ、あるいはその他すべての表象を、私しか知らない』

私は女の子が好きだ。

好きという感情はむずかしくて、簡単に憎しみとかに変わることもある。だから、純粋に好きだと言っていいのかはわからない。特に十代の頃は、ほとんど女の子と話すことができなかったから、女の子という存在が怖くもあった。ひどい言葉で表すならば、性的対象として女の子を欲していたけれど、話したことがない相手だったから、まるで異邦人のような存在だった。しかし私は男の子ともその時は話せてなかったから、すべてが怖かったのかもしれない。

二十代になって少しずつ普通に話せるようになった。いまでも緊張することはある。初対面の女の子とは話すときはかなり緊張する。自分はもう30歳になったし、つまりはそれはおじさんということだから、存在自体で相手を威圧してしまうことがより強くなったということだと思う。無表情でぶすっとしていたらそれだけで怖いし、せめてにっこり笑わないとなあと思うのだけれど、なかなかそれもまだ自然にできずにいる。緊張しすぎて変なムーブをしてしまうことはいまだって多いし、その人と仲良くなりたいと思ったならなおさらだ。人間関係はむずかしい。いかに自分が無害であるかを証明することにすべてを費やして、しかしその動きが不自然だから怖く思われることだってある。なかなか自然にできない。

女の子はかわいいから好きだし、自分とはその一点でもまるで違うからおもしろいと思う。醜さにしたってそうだ。醜さの露呈の仕方が自分とは違う。感度が違う。人間のどうしようもない愚かさだって、同じ人間とは思えない表現としてあらわれる。私がしたら醜いものが彼女によっては美しくなり、ごくまれにだが、その逆だってありえる。

香りがする。いい匂いだと思う。かわいい女の子からいい匂いがする。しかしあまりに近づきすぎると、何故かうっとなるような、急に嫌な臭いに感じることもある。距離感が大切なんだと思う。触れ合うと喜びを感じるんだろうなと思うけれど、あまりに近づきすぎると、これもまた吐き気を催しそうになる。それでも触れ合いたいと思う。性的欲求。最近はよくそういうことを考える。自分の中にあるそういう欲望の単純で複雑な感覚。どうやったら満たされるのか、あるいは満たされることはないのか。自分勝手になっていないか。特定の相手とどうやったら歓びを共有し合えるのか。

かわいい女の子になりたいと思っていた時期もあった。自分の存在が醜いと感じていたから。いまは少し薄れた。人間はみんな同じく醜いとも感じる。だから美しさ溢れ出る。あの子のまだ誰も知らない美しさと醜さを知りたいと思う。だから私は傷つきながらも人と会う。そういうことを繰り返していたら気づけばこんなに時間が経っていて、そして死んでいくんだろうなと思う。死ぬまでに何が得られるのかわからない。なにもわからないと思って死んでいくんだろうなという予感もある。この一回性の人生を、どうやって生きていこう。とりあえずシャワーを浴びて身支度をして、今日も出かけてみよう。そしたら歓びも悲しみも、それ以外の様々な機敏な感情もついてくるだろう。なんだって大丈夫だ。すべて引き受ける。

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