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同期神話を捨て、すみっコぐらしの世界へ 〜社会人が友達をつくるために

 社会人になって数年以上経つ皆さん、最近新しい友達はできてますか?
 当方社会人になって以来殆ど友達が増えていない、つまり学生時代の付き合いだけで生きながらえているという、なかなかのジリ貧状態です。
 すみません嘘吐きました、殆どというか全く増えてないです。なんの意味もない見栄を張ってしまった。

なぜ社会人になると友達ができない?

 社会人になってなかなか友達が増えない。という人も、学生時代はあからさまな苦労なんてせずとも自然と友達をつくれてませんでしたか?
 私がそうです。
 学生時代はサークルとか新しいコミュニティに飛び込むという決心こそあったものの、入ってさえしまえばこっちのものでした。
 同じサークルとか同期とかいう時点で既に同じ集団に属する”仲間”として認定し合っていて、”仲良くなるのがむしろ当たり前”という感覚だった気がします。

 ひっくり返すと、職場でなかなか友達がつくれないのは、同じ職場、課の人を”仲間”としては認定してないから…かもしれません。
 
 ”同じ職場”の”同期”までいけばさすがに仲間認定しそうですが、私の場合そもそも数が少なかったのもあり(という言い訳)まずそこで失敗。
 ほな年の近い同年代と友達になればいい話ですが、対等な友達というより先輩or後輩という感覚が強くて一線を超えられず、いやさすがにいい加減そろそろ友達欲しいわ、と思い至る今に至ります。

凄まじい力を持つ"同期"という言葉

 「俺たち同期やろ!?」と同期の絆をめちゃめちゃ大事にする、同期であることに絶対的価値を置く”同期神話信奉者”に接することがあります。身の回りの人や、物語の登場人物にも結構います。
 何を隠そう私も同期神話信奉者の傾向が多分にあります。
 職場の人と雑談する時、「”君”と第三者の”あいつ”は同期なのか、はたまた先輩or後輩か?」を無意識に確認していることがよくあるし、「同期同士はそれだけで絆がある」という前提で喋ることがあります。
 ”同期”という単語が出現するのは大学からというイメージですが、幼稚園から高校までの同級生もまぁ同期かと考えると、現代の日本人は物心つく頃から成人するまで”同期同士で友達をつくる”枠組みで育てられていると言ってしまっていいかもしれません。
 ただ、大人になってからもその”友達になるのは同期”観念を駆動させ続けるのか? という話で。
 同期かどうかで仲間判定をしていたら、同期に対して親密さを感じるには役立ちますが、それ以外に対しては”壁”にもなりえます。
 同期は友だちというか戦友、みたいな発言を見聞きする度にどうしようもない切ない憧れを感じてしまいますが、持ってないものについて言及しても仕方ない。
 同期同士仲良いならまだしも、私みたくその括りで仲間を得られなかった身としては、これ以上この価値観を持ってもいい方向に働くことはなく、さっさと廃止するのが良い気がします。

フォルダ分けをやめ、すみっコぐらしの世界へ

 同期かどうか、に限定せずとも、同じ世代かどうか。或いは同性か異性か。同じ人種かそうでないか。
 その”誰か”と知り合う前から基本情報で無意識にフォルダ分けして、どれくらいの仲になれそうか大前提で決めつけてしまっています。
 フォルダ分けを超えて不思議と気が合うというような人だって、きっとどこかにいるはずなのに。
 仮に「同性の同期としか友達になれない」が異性とも友達になれれば対象は単純に二倍になり、年の差や人種の壁も取り払えたら可能性は数十倍にも広がります。
 もういい年の社会人やし、同期に友達もおらんし、そういったフォルダ分け、レッテル貼りから自分を解き放ちたいものです。
 本当に気が合う、社会人一年目の男子や、40代子育て中の女性、別部署の定年間近の男性を見つけて友達になりたい。

 AI空間でアバターを通じて知り合うように誰かと接することができたら理想でしょうか。
 イメージとしては『すみっコぐらし』のキャラ達、無限の耐久試験を経て角もざらざらも全部とれた、つるっつるの石鹸みたいな個体。性格、個性は千差万別だが年齢や性別や人種といった身体性から解き放たれた個体と個体同士として。すみませんすみっコぐらし本篇のことは全然知りませんが。
  
 まぁ…。超絶至難の技ですね。
 年齢と性別、人種なんてネットの投稿ですら、逮捕された時の報道でも、まず出てくるし皆が一番に気にすることです。どんなメッセージを受け取るにしろまずその個人が『20才女性』なのか『50代後半男性』かで受け取り方自体が全く変わります。
 世代や性別や人種の違いは感じ方や考え方に決定的な違いをもたらすと皆が考え、実際問題きっと大いに違う。フォルダ分けする必要性があるからこそ、みんなも気にしてフォルダ分けするわけで。
 耳垢は乾燥してるか湿ってるか、目が一重か二重か、で人間を二分して仲間かどうか判定する人はいないわけで。

 それに、仮に身体の壁を取り払って、属性無視で年上も年下も異性もすべての人にあまりにフラットに接してたら、それはそれで配慮が足りないとなって色んな弊害が出そうです。
 だからまぁ完全に解き放たれたいというのは無理があって、考慮する、くらいに留めとくのがええんでしょうね。
 その人が生まれ育った背景、環境、身体的特性として考慮して、そういう傾向があるよな〜程度にしといて、実際にその人がどのような人間かは、会ってから判断する。そして属性を越えて気が合う人とは友達になる…。

 すみっコぐらしのキャラのように、なんて考えずとも、自然と性別や世代を超えて友達になれる人はなれるんでしょうが、物心ついたときからの同期神話に囚われていた身としては、その固定観念を少しずつ剥がすところからのスタートです。
  
 …つまり、友達ができるまでの道はまだまだ長そうです。
 以上、成人して一周回って友達を欲している、三十代独身男性でした。


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