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2019夏至後記:狂気の発露するところ

(2019.06.25記) 

さて。みなさま夏至はいかがお過ごしでしたでしょうか。

わたしは最近仲間たちが家ではじめた月いち食堂のお手伝いを朝からして(炊き出し的な?みんなでわいわい大人数のごはんをつくったりするのって、お祭みたいでたのしいよね)、ご近所さんや友人たちや子どもたちのにぎわう昭和の下町的ほのぼの、な午前を過ごし、午後はセッションの約束があったので四条烏丸へ。

そこで出会ったのが、この書。どーん。笑

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「潜在意識」「舞ふ」「令和」。

もはやメッセージというか、そのまんますぎて、笑う。
「ですよね」としかいいようのない😂

なんというか、やっぱり奥深くに眠っていたものが、掻き回されて浮上してきている今、という感じはとてもします。

(ことあるごとにおすすめしている)吉本ばななさんの『花のベッドでひるねして』から、そんなさまをみごとに予見していたかのような一節を、せっかくなのでちょっと引用。

「なにかが大きく動くときには、いいことも悪いことも同じだけ起こる。それはあたりまえのことだ。静かな池の水をかきまぜたら、奥にあるものも出てくるしまわりの空気も動く。底にあったドロドロがみんな浮かんでくるし、動いた空気の中には信じられないくらい美しいものも見つけられる。それが落ち着いてまた水が澄んだ状態になったとき、池は前と全く同じ状態ではない。良くなったのでも悪くなったのでもない、ただ動いただけ。」

・・・ここにくるまでに、大きく動いたなという人もいるだろうし(やはり90年代というのも社会や人の心の奥底で忘れられていた闇みたいなものが表出せざるをえなかった時期だったと思う。前回の山羊座土星期ののちのサイクル)、これまでよりもここからより大きく動く人もいるだろう。

そんなとき、まぁ、波立つものは、波立つままに、こつこつと暮らしは営みつつも、ときに七転八倒しながらなにかしら、が通過していくのをじっとまつ、そのくらいしかできることはない(その波立ちの正体やいかに、という話はまたあとにつづく)。

そのあとは夕方、友人たちがかれこれ一年近く?関わって進められていた築90年の町屋の改築プロジェクトのオープンハウスへ。

オープンハウスのタイトルは、その名も「DIG IN DOMA」。

2階部分をそのまま宙に浮かしたような状態で残し、1階の土間を掘り返し半地下をつくる、というのがこの改築の一番の目玉。

このプロジェクトのおもしろさ、なんというかひと言ではとても言いつくせないものがあるのだけど(わたしも断片的にしか知らないし、でもその断片を見聞きするかぎりでもだいぶぶっ飛んでいる)、ここまでの文脈にあえてこじつけるならば「え、わざわざ掘っちゃう?ほんとに?掘らなくても・・・よくない?いや、でもここは掘るっきゃないでしょ」みたいな、まるでなにかにとり憑かれでもしたかのように、「掘る」ということがとてつもなく決定的かつ象徴的な(ある種の神聖さまで感じさせるような)行為としてこのプロジェクト=物語の始まりにある。

わざわざ、堀り返さなくてもいいものを、あえて掘り返す、蒸し返さなくてもいいことも蒸し返す、それをしないではいられない。そんな見えない時代の波に突き動かされ(たのか?)、90年間(あるいはもっとそれ以上)触れられることのなかった地面を掘り返し、そこから出た泥や地下水を一心に運び出す。そしてその泥を運び出した巨大な穴にコンクリートの基礎があらためてつくられ、土間はすっかり現代的な装いに。

それに2階部分は宙に浮かしたままの掘り返し作業、というのが、なぜかどこかものすごく呪術的で。見た目には一般住宅の改築、でも、Wさんはもしかしてこの家にピラミッドを重ねて幻視していたのではないか・・・なんていう妄想まで浮かんできてしまうほど。

ちなみに、こちらのオープンハウスに行く途中、通り雨にあい少し雨宿りをさせてもらおうと思ってあるお宅の軒先に駆け込み足元に視線を落とすと、またまた、どーーーーん😂

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三輪の神って😂

いまになって、そういうことか!!!!!と、もう笑うしかない。

ふーーー、ここまででも盛りだくさんですが、この日はまだ終わりません。

***

さて、そんなこんなで感慨にひたりつつもドタバタとオープンハウスをあとにし、その後は住人たち+α、大人子どもあわせて総勢18人の大家族で車を走らせ、るり渓に蛍狩りへ。

18人で蛍を見るだけに移動、というだけでなんだか不思議なテンションになるものですが、ひさびさの電気ひとつない真っ暗闇と蛍を追いかけてはしゃぐ子どもたちの声、地元の人が用意してくれていたおいしいごはんでおばあちゃんのうちに親戚だかなんだかわからないけみんな集まってしまったときのような安心感に、またまたホッコリ。

ひとしきり楽しんだのち、車を連ねて、いざ帰路へ。

その日は朝から情報量がいっぱいで、遊びつかれた子どものようにストンと幸せな眠りにつき。

・・・そんな安心感とともに眠った夜、母親に向かって必死に怒っている夢を見ました。たま~に夢で自分でも気づいていない怒りとかが出てくるときって「母」が対象になることが多いのですが、この日も母に向けて怒ってなにかを必死に訴えようとするのだけれど、どうしても声が出ない。どう振り絞っても喉元で声が詰まってしまう。自分の景色のような、だれかほかの人たちの景色も混じっているような、夢独特の感じでしたが、(もしかしたら誰のなかにもあるかもしれない)なんとも切ないその光景は、起きてからも余韻がのこり「あ~潜在意識が舞ってはるわぁ」なんてことを思いながら目覚めたのでした。

そしてその日も住人のひとり、Mさんの民謡の発表会の応援にみなで駆けつけ。帰りに近くの公園に寄ったりして。狂気は他人ごとではなく、自分の内側に、すぐ傍にあることを人生のさまざまなフェーズで味わっている友人たちが、こうしていま穏やかな日常をともにしている、そのことがとてつもなくかけがえのないことのように思えて、またまたちょっと涙腺の緩んだ夏至(翌日)の午後のひとときだったのでした・・・。

そんなわけで!(あーーー長かった、笑)

なにがいいたかったかと言うと、星の動きとかふくめ、いろいろたぷたぷと波立ちやすい夏至前後だったとおもうのですが、ここのところの海王星のパンチの効き方って、もしかして「夢」とか「幻」とかの要素もあるけれど、そのなかでもとくに「狂気」と呼べる種類の夢幻(ゆめまぼろし)、そういったものがフィーチャーされてるのかな、と思ったのでした。

なにやら不穏な事件が続いたり、そういうことも含めて。

集合的な潜在意識の池の底で静かに沈んでいた「狂気」が、浮き上がり、ふわふわと舞っている。

このひと月くらい、プリミ恥部さんをかなりの頻度で聴いていて「これは一体?」と思っていたのですが、いまになって思うとこれを聞くことで自分のなかに発露させたかったのは「狂気」だったんだな、ということがわかる。

「ハレとケ」みたいな言い方をしてもいいんだけど、ともすると「ケ」だけになってしまいがちな日常に、ちょっとした「間」をつくる(まさに「ま・つり」)、サンバみたいに壮大じゃなくても、もっと些細な、目的地とか期間を決めずに旅に出るとか、急に会社ズル休みして山に登るとか、あり得ない人数でノリで出かけるとか、裸おどりするとか、普段だったら絶対にしないことをやってみる、なんかそういう小さなことで、生きることって急にキラキラしはじめるものだし、家族や集合意識の底で発露しそこねた狂気の渦を、(ある程度は仕方のないことだけど)だれかが極端なかたち(殺人とか)で担わなくて済むんじゃないかと。

家事を分担するように、狂気も分担。

そんなわけで、今日はプリミさんの動画を貼り付けておきます。

これは比較的マイルドな感じ。いけるぞ、と思った方は「愛の讃歌」もぜひ笑

そしてこちらはオマケのマツケンサンバ。(ブラジルのサンバをアップしたら、どっちかというと、マツケンサンバなのよね・・とカミングアウトしていただき笑)。
こちらもある種の「狂気」笑
どうせ狂うなら、楽しく、のフェーズがやってきたら😂


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