沖縄の戦争跡を回った日【日本一周183日】
この日はホテルの館内放送で目を覚ました。
「午前11時になりました。お部屋の清掃に伺います。午前11時になりました。(繰り返し)」
眠い目を擦ってスマホを開くと、確かに時刻は午前11時を指している。
泥のように眠りについてから、実に12時間も爆睡していたらしい。
ホテルを出てみると、那覇市の空には青空が広がっていた。
さて今日はどこにいこうか。
色々考えた結果、沖縄の南エリアを回ることにした。もうお昼時になっているが、距離もそこまでではないので、きっと大丈夫だろう。
旧海軍司令部壕、平和の塔、ひめゆりの塔、ニライカナイ橋、斎場御嶽あたりを一気に回ってしまいたい。
出発するとカブのガソリンメーターが赤ラインに入りかけていた。適当なスタンドで補充しよう。
途中のファミリーマートでさんぴん茶を購入。
味はあっさりしていて美味しい。沖縄のジャスミン茶らしいのだが、普通のジャスミン茶との違いはよくわからなかった。
坂をどんどんと登っていくと、那覇の街並みが見えるようになってきた。
本日最初の目的地に到着だ。
旧海軍司令部壕
沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。
恥ずかしながら、沖縄戦についてはあまりよく知らなかった。
ただ、以前に訪れた鹿児島の知覧特攻隊記念館で、特攻隊が飛び立ったのが沖縄戦だと知っていたし、広島の大和ミュージアムで、戦艦大和が沈没したのも沖縄戦とのことだった。
だから、沖縄で戦争の歴史を辿れば、これまで見た場所ともきっと繋がると思っていた。
施設内に入り、450円でチケットを購入する。
入り口ではマスク着用の後、アルコール消毒と検温を実施して、体調面問題ないかチェックを受けてから、入場。
こういう場所にしては珍しく、撮影OKの張り紙が貼られていた。
最初は資料館になっていて、沖縄戦の歴史や、当時の証言などがまとめられていた。
そもそも沖縄戦って何?って方もいると思うので、簡単におさらいしてみる。
第二次世界大戦を終結させたのは、言わずと知れた広島長崎への原爆投下だった。
しかし、そのほんの数ヶ月前には、沖縄を巡って米軍と日本軍の激しい戦いが繰り広げられていたのだ。
戦争が激化する中で、アメリカは日本本土を攻略するために、沖縄を占領して軍事基地を作ろうと考えていた。
アメリカから飛行機を飛ばして攻撃するよりも、沖縄を拠点にした方が効率が良かったから。
日本側もそれは重々承知していて、沖縄がアメリカに奪われたら、日本本土も攻撃に晒されてしまうため、必死に守る必要があった。
そこで日本軍が導入した作戦の中には、知覧に行った時にみた神風特別攻撃隊や、広島呉を出発した戦艦大和も含まれている。
この戦いは、沖縄県民を巻き込む壮絶な戦いで、当時の沖縄県の人口60万人に対して、推定15万〜20万人が亡くなるという悲惨さだった。
それだけではなく、地上の文化財も9割以上失われ、住民の戸籍なども消滅したため、戦後も長く混乱が続いたと言われている。
ここ、旧海軍司令部壕では、沖縄戦で指揮をとった日本軍の司令部の壕がそのまま残されているのである。
千羽鶴が並んだ入り口を抜けて、防空壕の中へ。
おどろおどろしい暗闇が、壕の先から広がっていた。
壁は簡易的にコンクリで埋め固めたからか、所々凸凹していた。
壕の中には、作戦を練る作戦室や、救護にあたる医務室、通信室などがあった。
ここは敵陣へと向かう防空壕の出口。ここを出て行った兵士はほとんど生きて帰ることはなかったらしい。
壕は、短い時間で急いで作られていて、作成には沖縄の学生や県民も携わった。
ここは司令官室。この部屋の壁には、弾丸で撃たれてような傷が多くできていた。
なにかと思って眺めていたら
手榴弾で自決した時の傷らしい。
気がつくと壕の内部を回り切って、外へと出ていた。
暗闇に少し居ただけなのに、太陽の光が懐かしかった。あんな暗いところに何日もいたら、きっと気がおかしくなってしまうだろう。
パーカーの袖をまくって半袖にしても暑い。汗もかいてきた。
僕はぬるくなったさんぴん茶を喉に流し入れて、
次の場所へと向かう。
旧海軍司令部壕を出て10kmほど。
名前はわからないけど、僕の身長を優に超えるほど高い茂みが、左右に生えている。
そして・・・
到着・・・。
沖縄で必ず訪れたかった場所
ひめゆりの塔だ。
併設している、ひめゆりの塔資料館へ。
館内はマスク着用。入館時の検温。手指消毒など、お決まりの手順を踏んでから、入館。
入場料は310円
ちなみに館内は撮影禁止だった。
なのでここからは、メモした内容を元に、
ひめゆりの塔で見てきたことを振り返ってみる。
どうしても僕の主観が入ったしまうことと、かなりショッキングな内容なので、自己責任で読んで欲しい。
旧海軍司令部壕の内容の続きになるけど、
時は1945年。熾烈を極める太平洋戦争において、沖縄はアメリカ日本両国にとってめっちゃ大事な場所にあった。
だから日本政府は、沖縄県民も総動員してアメリカ軍から沖縄を守るように指令をだした。
戦前、沖縄には21の中等学校があったんだけど、沖縄戦では全ての生徒たちが戦争に駆り出された。
その中でも、15-19歳の女子学生は主に看護学等にあたった。
そして1945年3月23日。
米軍の沖縄上陸作戦が開始。
戦艦から沖縄本島へは激しい砲撃が晒されて、アメリカ軍が直接沖縄に上陸してきた。
沖縄は、アメリカ軍と日本軍の地上での直接対決の舞台になった。
当時のアメリカ軍の人数は約55万人。
対して沖縄の日本軍は約11万人だった。
勝てるわけもなく、日本が取った作戦は、とにかく1日でも多く、アメリカ軍が日本本土に上陸する日を遅らせること。
そのために持久戦を選んだのだ。
そんな沖縄戦いの最中、沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高等女学校の生徒222人は、
那覇市の沖縄陸軍病院に配属され、負傷兵の看護や飯炊き、死体埋葬の業務にあたっていた。
壕の中で負傷兵の手当てをしたり、武器を前線に送り届けたり。
当時彼女たちは、安全な場所で作業に当たれると思っていた。
だけど、蓋を開けてみると、戦場のど真ん中。
途中でアメリカ軍の攻撃に遭って命を落とす人も少なくなった。
そして1945年6月18日。
戦局の悪化に伴い、学生たちに突然の解散命令が下された。
学徒隊は解散して、自分の判断で行動せよ。という命令。
戦場のど真ん中でそんな命令を受けることは、死の宣告に等しかった
解散後は米軍の攻撃にさらされて多くの学生が命を落とした。
砲弾の飛び交う中で、防空壕を出ていく当てもない。体を引きずり逃げる人、海岸で波に飲まれる人、手榴弾を胸に当てて自決する人、砲弾に吹き飛ばされる人。行き場を失い父母を叫び死んでいく人たちで溢れた。
結果として、240人いた生徒教師のうち、227名が命を落とした。
約90日間、そんな地獄のような戦いは続いた。
そして若い学生たちの尊い命を筆頭に、約20万人の沖縄県民の命と引き換えに、沖縄戦は終わった。
資料館を進んで行くと、
学校の教室ほどもある、広い部屋にたどり着いた。
そこでは壁一面に、沖縄戦で亡くなった227人の学生たちや教師の顔写真が並べられていた。
顔写真の下には、本名と年齢、どんな学生だったか。
そして死因まで明記されていた。
ーバレーボールが得意だった。
ー歌が上手だった。
ー自分の意見をはっきり述べる人だった。
ー真面目で真の強い子だった。
その一文一文から、写真一人一人が、紛れもなく当時生きていた人たちであることを感じられた。
・・・そして。
頸動脈に銃弾の破片を受けて即死。
糸満市で家族六人で自決。
被弾して即死。
重傷をおい豪の中で死亡。
地雷に触れて即死。
死因不明。
夥しい数の死因、死因、死因。
年齢をみると、15歳、17歳、19歳、、、
まだ二十歳にもならない若い子供ばかりだった。
死因の中には、自決といって自ら死を選ぶ人も多かった。
なぜ?
それが当時の日本の教育だったから。
天皇陛下や国のために命を投げ出すことは、美しい死だと教わっていたから。
だから兵士や学生たちは、アメリカ軍に降伏せずに、自ら命を断つ人も多かったらしい。
うまくまとめられたかはわからないけど、
僕がひめゆりの塔で見たことをまとめると、こんな感じだ。
沖縄の海は本当に綺麗で、
つい75年前に、そんな悲しい戦いがあったなんて、忘れてしまうほど。
だけどこれは紛れもなく、75年前にこの地で起こった出来事で、これから沖縄を旅するにあたって、そういう負の一面も忘れてはいけないと思った。
その後は、ひめゆりの塔から数キロ離れた、喜屋武岬を訪れた。
沖縄戦では、追い詰めらた多くの人たちが、この崖から身を投げて自殺をしたらしい。
そんな歴史があるとは思えないほど、悲しいくらいに美しい沖縄の海と自然が広がっていた。
喜屋武岬の先端にある平和の塔は、沖縄戦で亡くなった方々の遺骨が奉納されているらしい。
多くの人がかつて血を流したこの場所で、未来の平和を願い祈った。
平和の塔を出る頃には、時刻は16時を回っていた。
なんとか日没までにニライカナイ橋と斎場御嶽に行きたい。
・・・と、その前に・・・。
フォロワーさんに教えてもらった大城てんぷら店に行ってみた。
美味しい沖縄の天ぷらが食べられるお店らしい。
全メニューが80円ととてもリーズナブル。紙に注文を書いてレジで注文するスタイル。
海を見ながら待っていると、10分ほどで天ぷらができあがった。
海が見えるベンチに腰掛けて天ぷらを食べることにした。
これは野菜の天ぷら
魚の天ぷら
もずくの天ぷら
どれも熱々で美味しい。
天ぷらを食べていると野良猫がやってきた。お腹を空かせているみたい。
値段も安くて、揚げたての天ぷらを楽しめてとても良いお店だった。
さあ、そうこうしているあいだに、どんどん日が沈んできていた。
そしてさっきからガソリンがレッドライン・・・
しかし、どころ見渡してもガソリンスタンドがどこにもないのだ。
ギリギリのガソリンでなんとかニライカナイ橋にたどり着いた。
上からみると、沖縄の山々の上を這う竜のように見えた。
どんどん日が沈んでくる。
せめて斎場御嶽まではたどり着きたい・・・
そう思っていたけど・・
だめだった・・・
いや、厳密にいうとチキンレースに負けて、止まる前に秘蔵の携行缶でガソリンを補充した。これでしばらくは大丈夫だ。
そしてなんとか日没ギリギリに斎場御嶽にたどり着いた。
よし、本日最後の観光だ・・・!
そう思って中に入ると・・・
閉館時間を30分ほど超えていた・・・😭
くそおおおおおおおおお・・・・😭
なんで事前に調べてから行かn(以下略)
そんな感じで、この日は那覇まで戻って無事にガソリンも補充して、1日を終えるのであった。
明日以降はUberをしたりとか、那覇を中心に観光できたらよいな。
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