神風特攻隊をみていたら沖縄に行けなくなった【日本一周174日目】
お疲れ様です。
昨晩は南さつま市のとある海岸にテントを張って一夜を明かしました。
夜は静かな場所だったのに、朝方5時くらいから、「台風かよ」ってくらいの暴風に見舞われて、テントが吹き飛ぶんじゃないかってくらいビュービュー風が吹き荒れて目が覚めてしまった。
夜が明けてきて、テントを畳んでいると、
散歩で通りかかったご夫婦が声をかけてくれて、なんと自宅で朝ごはんをご馳走してくれた・・・😭
SNSで顔は隠してとのことだったので。。。
朝ごはんご馳走様でした。お声かけいただいて嬉しかったです。ありがとうございました!
その後は、知覧にある、知覧特攻平和記念館を訪れた。
鹿児島県にある知覧特攻隊平和記念館。ご存知だろうか。
鹿児島県の南部に位置する知覧は、第二次世界大戦末期において、特攻隊が多く出撃した街なのだ。
ここは、戦死した特攻隊員たちの遺書や遺品を展示している記念館なのである。
入り口では検温をして、アルコール手指消毒をしてから入場。
入場料は500円。
残念ながら、撮影できるのは入り口すぐのロビーと、その奥の一台の零戦のみ。
なのでここからは、メモした内容をみながら、
館内の様子を言葉で説明していこうと思う。
どうしても僕個人の解釈が入ってしまうことと、少しショッキングな内容になってしまうため、ここから先は覚悟して読んでほしい。
第二次世界大戦は、1941年にハワイの真珠湾攻撃を皮切りに始まった。第一次世界大戦から勝ち星が続いていた日本は、その後は東南アジアの諸国への進撃を開始したが、アメリカの反撃に押され、1945年には沖縄本島や日本本土までも空襲にさらされるようになった。
当時の大日本帝国では、沖縄を戦争の最前線と考えていた。沖縄がアメリカの手に落ちることだけはなんとか避けるために、資源に劣る日本が、少ない戦力に精神力を上乗せして、大きな敵を撃とうと立案されたのが、神風特別攻撃。通称「特攻隊」だった。
特攻隊員となったのは、全国から集められた若干17歳から20歳代の若者たちだった。今で言う高校生や大学生だ。
日に日に敗戦が濃くなる中で、アメリカに立ち向かうために、250kg・500kg爆弾を積んで、知覧から約650km、2時間半の飛行を経て、沖縄の敵の艦隊に体当たりを仕掛けた。
その人数は、1036人。知覧からは最も多い439人が出撃した。
この作戦は、パイロットが必ず死ぬ、文字通り「必死」の作戦だった。
と、そんな歴史的背景を抑えて上で、実際に記念館の中に入ってみよう。
記念館の中は、学校の体育館くらいの広さだった。一番奥のステージにあたる場所には、実際の零戦の展示がされており、最も目立っていた。
しかし、それよりも僕の目を釘付けにしたのは、
記念館の壁一面に貼られた写真たちだった。
壁一面に、特攻隊員の顔写真が、何枚も何枚も貼られているである。
これは、特攻でなくなった1036人全員の顔写真らしい。
16歳・・・18歳・・・19歳・・・17歳・・・24歳・・・
ーーーーどれも若い男の子ばかりだ。
19歳・・・26歳・・・23歳・・・
ーーーー僕と同じ年齢の人もいた。
白黒写真だけど、笑っている顔から、真顔でキリッとした顔まで、様々だった。
フィクションでもなんでもない、75年前に実際に生きていた人たち。
この撮影後、特攻によって命を落とした人たち。
その事実を前に、写真から目を離せなくなった。
気がつけば、自分と同年代の友人や、高校や大学時代の友人たちのことを頭で思い浮かべていた。
無数に並んだ顔写真の手前には、ショーケースがあり、その中に、特攻隊員の遺書が展示されていた。コピーではなく本物だ。
「お母さん。大元気で。でっかいやつを沈めます。」
「散るべき時はきた。若桜。赤き血潮ぞ国を護らん。」
「決死」
「轟沈」
「人生の総決算。何も謂うこと無し」
一言で書かれたものから、数十行におよぶものまで、様々だった。
特攻の出撃命令は、前日に知らされる。出撃を知らされてから書かれた遺書は短く、出撃に数週間前に書かれた遺書は長い傾向にあったという。
明日自分が死ぬと分かっていて、長い言葉など浮かばなかったのであろう。
また、父親への言葉は少なく、母親を思う言葉が多かった。
自分を育ててくれた母親への感謝、残された家族のことを想い、
自分が特攻で散った後も、残された人たちが平和に生きてくれることを願う。
そんな内容がほとんどだった。
少年ばかりではなく、20代後半や30代の特攻隊員もいた。
彼らの中には、奥さんや子供がいる人もいたらしい。
当時は、「国のために命を投げ出すことは名誉」といった教育が行われていて、
「僕は笑顔で笑って往きます」
「国のために命を捨てて戦えることを日本男子として誇りに思います」
といった内容の遺書もあった。
遺書は毛筆で力強く書かれているものもあれば、細い字で殴り書きされたものまで様々で、一枚として同じものはなかった。
この一枚一枚の数だけ、大切な人を想い、特攻で命を落とした人たちがいると思うと、自然と涙が溢れていた。
当時は1945年。戦争末期では毎日のように空襲に襲われていた。
自分の家族や大切な人が、いつ空襲で命を落とすかわからないような時代だった。
「大切な人が笑顔で天寿を全うするその日まで、幸せに暮らせるよう。決してその命が理不尽に脅かされることがないように。」
「たとえその時、自分が生きてその人の傍にいられなくても、生きていてほしい。」
そんな特攻隊員たちの想いが、写真から、遺書から伝わってきた。
これは三角兵舎といって、隊員たちが寝泊りした宿舎らしい。
当時は知覧も空襲に晒されていたため、こうした防空壕のような作りになっているらしい。
遺書では前向きな言葉を連ねていた隊員たち。
だけど、夜見回りに来た隊員の記録によると、
この宿舎で、夜、布団を頭からかぶって、泣いている隊員たちも多かったらしい。
特攻の朝、枕が涙で濡れていたという記録も残されていたようだ。
自分が明日死ぬと分かっていて、それでも大切な人を守るために、
必ず死ぬ戦闘機に乗り込んでいった1036人の特攻隊員たち。
館内には、当時撮影された特攻隊員たちの出撃前の様子や、休んでいる普段の様子も写真で残されていた。
特攻隊員たちの表情は、驚くほど晴れやかで、隊員同士笑い合う様子や、無邪気に笑っている姿が残されていた。
自分が同じ立場だったら?
こんな風に笑っていられるだろうか。絶対無理だと思う。
神風特攻隊について、僕はここにくる以前は、
「戦前の日本が犯した愚かな行為」だとしか思っていなかった。
爆弾を積んだ飛行機で自爆するなんて、常軌を逸した発想だし、狂っている。
どうして逃げ出さなかったんだろう。国のために命をかける価値なんてないだろうと。そう思っていた。
しかし実際に散って行った隊員たちの遺書からは、大切な人の幸せを願う、暖かい感情が伝わってきた。
当時の教育、時代背景が、こうした悲劇を産んだ。
そして、こんな悲劇を繰り返しては行けないと、心から思った。
ちょっと思ったことがあって、
もしかしたら、今のコロナ時代の混乱も、
100年後の人類がみたら、
「昔の人たちなにやってんの?笑」
って思うのかな。
だけど、今僕らが毎日必死で生きているように、
過去の、どれでか間違っていたと言われる歴史であろうと、
その時代を必死に生きていた人たちがいたんだろうな。
戦後75年、時代は令和へと変わり、価値観も物の考え方もどんどん変化してきている。
だからこそ、75年前に実際に起こった悲劇を知り、これからの未来に活かしていくことも大切なのではないだろうか・
今日、ここに来た証としてセルフを撮って、複雑な感情のまま、僕は知覧特攻記念館を後にした。
その後は鹿児島市へと向かった。
途中、はるか遠くに開聞岳がそびえていた。
出撃した特攻隊員たちは、この開聞岳を見て、沖縄へと旅たっていったそうだ。
知覧から鹿児島市までは30km程度。
1時間ほど走っていると、突然景色が開けてきた。
桜島だ。
山頂からはモクモクと煙が上がっている。
これからあそこの麓の、鹿児島市に向かうんだ・・・
そう思うと、少しワクワクしてきた。
鹿児島市に入った。
道路の端にはヤシの木が何本も連なっている。
まるで南国の街に来たような、そんな空気を感じた。
途中で立ち寄ったマクドナルド。ドナルドもなんだか南国の陽気な雰囲気が漂っている。
おもむろにMacを開く。
Wi-Fiに接続し、僕は検索ワードを打ち込んだ。
「沖縄 行き方」
・・・そう・・・。
これから沖縄への行き方を調べるのだ笑
いや事前に調べておけよというツッコミは男らしくスルーする。
色々ツイッターなどをみていた情報によると、マルエーフェリーとマリックスフェリーの2つがあるらしい。
料金は原付を乗っけて片道2万円・・・
高いわアホ!
ふむふむ、本日18時から出港か。
今16時だから、2時間後だな
僕は急いで電話をした。
すると・・・
👩「あー、すいません、本日悪天候のためフェリー欠航なんですよねー」
えええええええええええ!?!?😭
なんと本州を襲っている大寒波の影響で、数日出港の目処が立たないらしい・・
くっそーーーーーー!!
もうやってられるか!ビックマックくう!!
いやまじでどうしよう。。。😭
明日に続く〜
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